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中国電力
  • 爆心地からの距離 680メートル
  • 中区小町4番33号(小町)
  • 1929(昭和4)年12月竣工
  • 鉄筋コンクリート造/5階建・地下一階
  • 橋本建築事務所設計/坂本組施工

案内プレート

 中国電力株式会社は 一九五一(昭二六)年に設立された。被爆当時、中国電力は「中国配電」と「日本発送電中国支店」に大きく分かれており、被爆の惨状を伝える遺跡としてその姿を残しているのは、前者の中国配電本店の建物(市内中区小町)である。現在では全面改築をして立派なビルになり、当時の面影は何ひとつ残っていない。
 
 被爆による火災で、この本店ビルは鉄筋コンクリートの外郭のみを残した。爆心地から約八〇〇メートルという至近距離にあったためである。当時の出社時間は午前八時(現業員は七時三〇分)だったので、職員の多くはすでに出社していて、即死者やその後の死亡者を含めると、被爆後一年間の犠牲者は一六三名(本店のみ)にのぼった。中国配電全体でみると、在籍従業員数の約四三%、被爆時出勤者数の約五二%が原爆犠牲になり、死亡している。
 この他、学徒動員でかり出されていた第三国民学校高等科二年生の九名も犠牲になった。彼らは本店構内の空地で、建物疎開で回収された電線などの整理をしていた。

1945年頃の中電本社

 被爆の惨状は目をおおうばかりだった。爆心地近くであったため、想像を絶する強烈な爆風が次のような地獄をつくりだした。
 「……一階の表の部屋には、近所の負傷者が数人収容されており、奥の部屋には、社内で即死した十七、八人の屍体(後日調査のときは二六体あったともいう)がならべられていた。

1960年頃の中電本社

 ある死体は、窓のスチールサッシの槍のようにとがった破片が頭に突き刺さり、もう一人は裂けたサッシが背中をつらぬいて、そのまま吹きとばされ、壁面にハリッケになっていた。
 戦時施設部の山本第一課長は、爆風によって机もろとも壁に叩きつけられた姿のまま、部屋の隅で発見された。動くことのできる者は、周囲のまっ暗な中を、手さぐりで脱出したため、階段の壁には無数の血痕がついていた。

 生き残った職員は、中央の階段か非常階段から中庭に出た。火がまわったため、中には二階から南側の雨樋に沿って降りた者や、二階から窓越しに飛び降りて助けられた女子職員もいた。これらの人はおおかた通用門から電車道へ出たが、折りから爆心の方へ向って、強い風が吹きはじめていた。熱気をおびた風が砂を巻いて吹き、眼をあげていられなかった。このような中を、大方の者は宇品または比治山方面にむかって思い思いに避難していった」(『広島原爆戦災誌 第三巻は広島市役所編)。

中電本社 2000/6/12

 なお、広島市域がほとんど焦土と化したなかで、前述の「日本発送電中国支店」(日発)の保安電話のみが難を逃れ、被爆の状況が東京に報告された。広島・大阪間の保安電話は山陽道沿いの送電線に添架されていたので、委託通信(重要連絡事項を電報式文章にまとめて本店にとりつぐしくみ)の形で通信が可能になったということである。電文調の第一報は次のようなものであった。
 「本日八時一〇分頃B29少数機広島市内ニ強力ナル爆撃ヲ行フ 市内1/4爆弾ヨリ倒壊又ハ被害ヲ受ケ市内数力所ニ火災発生中」
 この報は被爆当日の一三時二〇分に送信されており、注目すべき記録となっている。
 被爆後、六日夜は全市停電の暗黒だったが、不眠不休の復旧作業かつづけられ、八月二〇日には残存家屋の三〇%に送電が復活し、11月末までにはその100%に送電が可能になったという。(平和文化「ドキュメンタリー原爆遺跡」より)