中国電力
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中国電力株式会社は
一九五一(昭二六)年に設立された。被爆当時、中国電力は「中国配電」と「日本発送電中国支店」に大きく分かれており、被爆の惨状を伝える遺跡としてその姿を残しているのは、前者の中国配電本店の建物(市内中区小町)である。現在では全面改築をして立派なビルになり、当時の面影は何ひとつ残っていない。 被爆の惨状は目をおおうばかりだった。爆心地近くであったため、想像を絶する強烈な爆風が次のような地獄をつくりだした。 ある死体は、窓のスチールサッシの槍のようにとがった破片が頭に突き刺さり、もう一人は裂けたサッシが背中をつらぬいて、そのまま吹きとばされ、壁面にハリッケになっていた。 生き残った職員は、中央の階段か非常階段から中庭に出た。火がまわったため、中には二階から南側の雨樋に沿って降りた者や、二階から窓越しに飛び降りて助けられた女子職員もいた。これらの人はおおかた通用門から電車道へ出たが、折りから爆心の方へ向って、強い風が吹きはじめていた。熱気をおびた風が砂を巻いて吹き、眼をあげていられなかった。このような中を、大方の者は宇品または比治山方面にむかって思い思いに避難していった」(『広島原爆戦災誌 第三巻は広島市役所編)。 なお、広島市域がほとんど焦土と化したなかで、前述の「日本発送電中国支店」(日発)の保安電話のみが難を逃れ、被爆の状況が東京に報告された。広島・大阪間の保安電話は山陽道沿いの送電線に添架されていたので、委託通信(重要連絡事項を電報式文章にまとめて本店にとりつぐしくみ)の形で通信が可能になったということである。電文調の第一報は次のようなものであった。 |
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