大正屋呉服店
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1929(昭4)年3月,大阪に本店を持つ大正屋呉服店は細工町から中島本町に新築移転する。瓦屋叔の木造2階建てが続く町並みにあって,鉄筋コンクリート造のモダンな呉服店はまさに常識破り,極めて革新的な建物だった。目新しさは,構造だけにとどまらず,内部の売場も履き物のまま上がれるようになっており,ショーウインドーのある1階と2,3階も売場となっており,屋上に上がると市内が一望できたという。 建物は元安橋よりの角地に位置し,コーナーに玄関が取られ,1階のアーチ窓と2,3階部分は曲面上の方立てによる縦長の窓を連続させ,角の上部は丸めて塔状に見せてアクセントを付けるという,街区建築の1つのあり方を示していた。 内部は床スラブと梁を露出させ,ハンチを設けて柱と梁をつなぎ,構造のみならず力強さも表現していた。大阪を拠点にしていた設計者増田清の特色をよく表わす建物だった。 原爆によって屋根スラブは押し下げられ,梁や床も破損し,地下室を除いて全焼したが,基本的形態はとどめた。爆心地の近くでありながら爆心地側に開口部がほとんどない,強固な建物だったからだろう。当日,この建物には37人が出勤しており,被爆直後,8人が傷つきながらも建物から脱出したが,たまたま地下室に書類を取りに降りていた1人だけを残して,その後全員が死亡した。 戦後は早い時期に破損した北半分の屋上スラブを撤去し,木造小屋組みにより屋根が架けられるなどの補修が加えられ,引き続き燃料関係の組合や会社が燃料会館として使用した。平和記念公園の建設に伴い取り壊すかどうかの論議をよんだが,1957(昭32)年3月に広島市が買収し,東部復興事務所として市の東部地域の復興の拠点となった。
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