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比治山
比治山陸軍墓地 ABCC
   
   


比治山陸軍墓地
  • 爆心地からの距離 2200メートル
  • 南区比治山公園

各県出身兵士の墓が並ぶ 2000/9/3


 広島駅から南へ約一五〇〇メートルのところに、標高七〇メートルあまりの比治山がある。山の南麓傾斜面には、縄文土器が発掘された比治山古墳があり、春には桜、秋には紅葉が美しい市民の憩いの場である。しかしその半面、市街地や広島湾を一望できるこの山の南端の一角には、無数の墓が所狭しと寄せ集められている。比治山陸軍墓地である。

各県の墓石数の表示 2000/9/3

 比治山陸軍「墓地」と呼ばれているが、政府は墓地と認めていないので、国有墓地からは除外され、無籍の「比治山南広場」とされている。

 比治山陸軍墓地は一八七二年、東は現在のNHKテレビ塔から西は放射線影響研究所(旧ABCC)一帯にわたって、鎮台将兵の墓地として創設された。西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、ノモンハン事件、太平洋戦争で戦死した、沖縄を除く、全国四六都道府県・四五〇〇名余の墓が一基一基整然と建立されていた。中国をはじめ、戦地で負傷した将兵はすべて広島に送還され、衛戌病院や陸軍病院で治療を受けた。火葬が普及するまでは、遺体を将兵の故郷に帰さず、広島で土葬にした。遺族たちは、遺族手当などで比治山陸軍墓地の用地を買い、墓地を建てた。中国人・ドイツ人・フランス人などの外国人の墓もある。

各県出身兵士の墓が並ぶ 2000/9/3

 一九四一年、軍部は米軍の空襲に備える高射砲陣地を構築するため、忠魂碑一基を建てて、墓地を取り壊す計画を立てた。陸軍墓地整理工事は一九四四年からはじまった。墓石は撤去して壕に埋め、掘り出された遺骨は仮納骨堂に収納した。しかし、原爆投下と敗戦で工事は中断された。

 そして敗戦直後、九月の枕崎台風と一〇月の大雨で墓石は谷間に押し流され、倒壊した納骨堂からは遺骨が散乱し、そのまま放置されるという無惨な姿になった。

入口の碑 2000/9/3

 アメリカ占領軍は一九四七年にABCC(原爆傷害調査委員会)を設置し、原爆の人体に対する影響についての調査にとりかかった。そして五一年、万一の災害から調査データを守ろうと、市民や遺族の強い反対にもかかわらず、宇品から比治山陸軍墓地敷地への移転を強行した。壊された墓石、掘り出された遺骨は南側斜面の谷間に捨てられたが、アメリカ占領軍の司令で、報道は一切許されなかった。

 遺族の陳情に対して日本の政府は、「政府は非常に困ることになる。そうすると国のためにもならないし、市にとっても良い結果にならない」 (厚生省)と、遺族たちに墓地の提供を強制した。このように、日本軍部・政府から見捨てられ、アメリカ占領軍によって破壊された陸軍墓地が現在の姿に整理されたのは一九六〇年のことである。

墓地から瀬戸内海をのぞむ 2000/9/3

比治山は爆心地から二〇〇〇メートル余り。戦時中は山腹に防空壕が掘られていた。被爆状況は、爆心地に面した西側・北側斜面と、その陰にあたる東側・南側斜面では大きく異なった。爆心地側の斜面はほとんど全壊・全焼したものの、反対側は熱線・爆風の影響が比較的少なく、火災も発生しなかった。

 被爆後、この山には爆心地方面から負傷者がぞくぞくと押し寄せ、山全体が修羅場と化した。臨時の救護所も設置されたが、事切れた多くの人たちは暁部隊の兵士によって火葬にふされていった。

 比治山は、戦死者の家族が涙をこらえて無念さを祈りに変えた場所、その戦死者の遺骨が軍部の非常な仕打ちに涙したところ、そして、そのことを見つづけてきた市民が被爆の苦痛にのたうち、死んでいった山なのである。(平和文化「ドキュメンタリー原爆遺跡」より)