御幸橋
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しかし、広島で一番長い橋だったので通称「ながはし」 とも呼ばれていた。その後いちど架けかえられ、被爆当時の橋は人と市内電車が併用する橋として一九三一年 (昭6) に再度架けかえたもので、石造り・ゲルバー式構造で欄干 (らんかん) は御影石でつくられていた。 明治・大正・昭和の戦争で幾十万という兵士が、三代にわたり御幸橋を行進して戦場へ送られていった橋でもある。この世とあの世のかけ橋でもある御幸橋を渡って戦地へ行くと、無事に帰還できるという言い伝えがあった。悲しい迷信であるが、「御幸」の名から絶対主義的天皇制の厳めしさすら感じる。 爆心から約二三〇〇bの御幸橋は、爆風圧によって南側の欄干は川へ落ち、北側の欄干は将棋だおしのように歩道へ倒れたが、橋そのものは無事だった。九時前後から、建物疎開作業に動員されていた中学生や女学生、そして市街の炎から逃れてきた人びとは、橋向こうの宇品方面は火災が発生していないのを見てはっと一息つき、橋の上にへたへたと座りこんだ。 広島の報道機関は全滅し、七日と八日の新聞報道は空白となっている。その日、三人の記者とカメラマンは必死の思いで取材にあたったが、記事も写真もついに報道されなかった。被爆35年後の一九八〇年 (昭55) 八月、三人の記者・カメラマンは当時の取材日誌などをもとに、幻の新聞『広島特報』 八月七日号と八日号を手書きのタブロイド版で発行した。 被爆の惨状を無言で見守ってきた御幸橋も車の洪水などによる老朽化で解体され、一九八八年(昭63) に新しい橋に架けかえられた。八月六日の写真は六枚しかなく、そのうち橋上の惨状を写した一枚を、西詰め南側の元派出所があった辺りへ説明板と共に設置されている。また、北側には被爆欄干の一部と親柱が保存され、御幸橋の″ここまでの歩み″説明板がある。(植野浩著 汐文社「ヒロシマ散歩」から) |
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