home

御幸橋
  • 爆心地からの距離 2270メートル
  • 京橋川
  • 1931(昭和6)年5月竣工
  • 鉄筋コンクリート桁


御幸橋 1935年頃


 デルタの町として発展してきた広島は、清らかな七つの流れが瀕戸の海にそそいでいた。七つの川のひとつ、京橋川の最下流に、市街地と宇品地域をむすぶ木橋が架けられたのは、宇品の築港が始まった翌一八八五年(明18)で、同年の明治天皇の広島「行幸」を記念して 「御幸橋(みゆきばし)」と名づけられた。

爆風により倒れた上流側欄干 1945年

 しかし、広島で一番長い橋だったので通称「ながはし」 とも呼ばれていた。その後いちど架けかえられ、被爆当時の橋は人と市内電車が併用する橋として一九三一年 (昭6) に再度架けかえたもので、石造り・ゲルバー式構造で欄干 (らんかん) は御影石でつくられていた。

御幸橋上の惨状 撮影・松島美人

 明治・大正・昭和の戦争で幾十万という兵士が、三代にわたり御幸橋を行進して戦場へ送られていった橋でもある。この世とあの世のかけ橋でもある御幸橋を渡って戦地へ行くと、無事に帰還できるという言い伝えがあった。悲しい迷信であるが、「御幸」の名から絶対主義的天皇制の厳めしさすら感じる。

御幸橋西南詰のモニュメント 2000/8/30

 爆心から約二三〇〇bの御幸橋は、爆風圧によって南側の欄干は川へ落ち、北側の欄干は将棋だおしのように歩道へ倒れたが、橋そのものは無事だった。九時前後から、建物疎開作業に動員されていた中学生や女学生、そして市街の炎から逃れてきた人びとは、橋向こうの宇品方面は火災が発生していないのを見てはっと一息つき、橋の上にへたへたと座りこんだ。

 十一時ごろ、どこから持ってきたのか、焼かれた体に食用油をぬる応急処置がはじまると、倒れこんでいた重傷者たちも起きあがり、油の治療をうける人でごったがえした。昼すぎには、西詰めの破壊された派出所前あたりが臨時救護所になり、暁部隊から救急薬品がとどけられて応急治療が始まったので、さらに多くの被災者が殺到した。

西北詰の親柱 2000/8/30

 広島の報道機関は全滅し、七日と八日の新聞報道は空白となっている。その日、三人の記者とカメラマンは必死の思いで取材にあたったが、記事も写真もついに報道されなかった。被爆35年後の一九八〇年 (昭55) 八月、三人の記者・カメラマンは当時の取材日誌などをもとに、幻の新聞『広島特報』 八月七日号と八日号を手書きのタブロイド版で発行した。

 その中の一人で当時、報道カメラマンであった松重美人さんは、十一時半ごろ最初のシャッターを切った写真とともに、次のような記事を書いている。

『……御幸橋の西詰めの千田町派出所前で、ひとりの警官が一斗缶をぶち抜き、火傷を負った人たちの赤むげの肌に、油をぬって応急手当をしているが、時間がたつほどに、負傷者はぐんぐんふえてくる。よし、ここを写真に収めようとカメラに手をかけたが、ファインダーから見る光景は、あまりにもむごい。……二枚目のファインダーをのぞいたときは涙で目前の被写体がかすんでいた。……』

御幸橋から似島をのぞむ 2000/8/30

 被爆の惨状を無言で見守ってきた御幸橋も車の洪水などによる老朽化で解体され、一九八八年(昭63) に新しい橋に架けかえられた。八月六日の写真は六枚しかなく、そのうち橋上の惨状を写した一枚を、西詰め南側の元派出所があった辺りへ説明板と共に設置されている。また、北側には被爆欄干の一部と親柱が保存され、御幸橋の″ここまでの歩み″説明板がある。(植野浩著 汐文社「ヒロシマ散歩」から)