広島銀行銀山町支店(広島東警察署)
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小口貯金を集めて運用する貯蓄銀行は1895(明28)年頃から相次いで設立されたが,小規模な銀行は経営基盤が弱く,1921(大10)年に「貯蓄銀行法」が制定され,免許基準が厳しいものとなり,県内ではすべての貯蓄銀行が普通銀行に転換した。 この本店は古代風の柱の装飾が目立ち,銀行建築として威風を持っていた。3階建ての小振りな建物だが,コリント式の柱の見える壁の奥は2階分が吹き抜けとなった営業室があり,余裕のある大空間があった。銀行建築はしばしば英国のバラデイアニズムの様式を用いて設計された。それは古代ギリシャ・ローマの様式を用いながらアレンジするもので,古代風の柱や柱の土台,梁の飾りと梁上の屋階,柱間に挿入されたアーチ形窓などによって構成される。これらは本来,神殿建築に発するもので,独立円柱となるはずだが,ここのファサードではすべて柱の半分が壁に埋もれ,玄関の左右のみが円柱で,その他は角柱としてある。 太平洋戦争末期の1945年5月,政府の1県1行主義に沿って県内の5行が合同し,新しい芸備銀行が設立された。広島合同貯蓄銀行本店は,芸備銀行下柳町支店となった。さらに7月には本店に統合され,この建物は広島東警察署に貸与されていた。 東警防団団長の松坂義正医師は石見屋町の自宅で被爆し左足を骨折しながらも,翌日,畑賀病院に運ばれるまで,看護婦らと警察署前で負傷者の救護にあたった。この建物は8月7日から随時県庁となり,高野源進県知事のもとで救護活動の調整や食糧放出などの対策が進められた。20日県庁は安芸都府中町の東洋工業に移転する。 |
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