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広島陸軍被服支廠
  • 爆心地からの距離 2670メートル
  • 南区出汐2丁目4番60号(出汐町)
  • 1913(大正2)年8月竣工
  • 鉄筋コンクリート造・レンガ張り/2階建
  • 設計・施工不詳

被服支廠前の在郷軍人会表彰式 1944年2月

 この倉庫は、一九〇四年につくられた陸軍被服廠広島出張所の一部です。その三年後、陸軍被服支廠に昇格し、軍帽から、軍靴、外套、肌着、ベルト、ボタンまで、陸軍関係の被服一式を調達・製造・修理・保管する大施設でした。敷地内面積は十七万平方メートル、しかし敗戦とともに、あの日を耐えた百近い建物を残しその役割を終えました。

被服支廠跡 2000/9/3

 戦後は、社宅や公務員宿舎用敷地、個人住宅用地、県立学校用地、国道二号線用地、その他各種事業用地などとしてつぎつぎ処分・転用されていきました。現在は、県立広島皆実高校、同広島工業高校が跡地の大部分を占めています。

 当時の面影を伝える四棟の赤煉瓦の建物が現在も残され、日本通運などの倉庫になっています。しかし、これは元の敷地の南西部分のほんの一郭で総面積の十二分の一でしかありません。

爆風圧で曲がった鉄扉 2000/9/3

 ここは爆心から二・七キロ、一瞬の閃光とともに、強烈な爆風が襲いかかりました。倒壊はまぬかれたものの爆心に面した鉄扉や窓枠は内側に大きく曲がってしまいました。

 被爆直後から多くの被爆者がここに避難してきました。その様子を、女子挺身隊員の一員として動員されていた岩田幸恵さん(当時十七歳)はこう語っています。

爆風圧で曲がった鉄扉 2000/9/3

 「あちこちで叫ぶ『水を下さい』の声、わが子を探す声、苦しさに声もなく横たわっている人、子供の泣き声。その声もだんだん小さくなり、一夜明けると冷たい体に変わっていました。また一夜明けると冷たい体がごろごろ横たわっているのです。裏の畑では、亡くなられた方々が、つぎつきに茶毘(だび)にふされました」

 峠三吉は、「原爆詩集」の中の散文詩「倉庫の記録」に、「その日足のふみ場もなくころがっている…二日め床の群はなかばに減って……八日めがらんどうになった倉庫」と被爆後八日間の模様を書いています。

爆風圧で曲がった鉄扉 2000/9/3

 この一帯から宇品港(現広島港)にかけては旧軍関係施設が点在していました。現在もその一部が各所に残っており、当時の面影をしのばせています。

 兵器を調達していた陸軍兵器支廠跡(その一部は現広島大学病院内にある)、食料を調達していた陸軍糧秣支廠跡(現在はその一部が広島郷土資料館になっている)などがそれです。(「原爆碑・遺跡案内」刊行委員会『ヒロシマの声を聞こう』から)

峠三吉  倉庫の記録