日本簡易火災広島支店
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1936(昭11)年12月大阪に本店のある日本簡易火災広島支店は,当時最も繁華な中島本町商店街の一角に移転した。広島の損害保険会社としては,初めての鉄筋コンクリート造の建物だった。被爆当時,日本簡易火災は夏季の始業時刻を8時と定めていた。出勤直後に炸裂した原爆は,17人の内勤職員のうち支店長以下14人の職員と支店長の家族2人の命を奪った。建物の内部は全焼したが,外郭にはほとんど影響がなかった。生き残った社員らは9月頃から焼けビルに急造の事務所をしつらえ,戦争保険金の支払事務にあたったが,12月には一時的に宇品に移転した。 戦争保険とは戦時下の特別立法による人的,物的戦争被害を補填する保険制度である。制度が発足した1942年当初広島市ではほとんど顧みられていなかったが,東京大空襲や大阪,袖戸等の空襲被害が報道されるにおよび加入申し込みが殺到,各保険会社はその対応に追われ続けていたという。 その後,事務所の一部は町内会事務所となり,生活物資の配給作業などが行われ。1949(昭24)年に社名を富士火災海上に改めた広島支店は,平和記念公園建設のため1954年基町に移転する。この建物の解体作業では頑丈な造りだったため桁外れの鉄材が現われ工事関係者は苦労したという。(広島市『ヒロシマの被爆建造物は語る』から)
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