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慈仙寺
  • 爆心地からの距離 270メートル
  • 中区中島町1番(中島本町)

 
慈仙寺の墓石 原爆により上部が飛び落ちた 2000/9/13

  広い平和公園の敷地内で、被爆当時の姿をそのままとどめているのはこの墓石だけです。
 広島を流れる七つの川 (現在は六つ) の本流太田川が、公園の突端で本川と元安川に分かれるあたりを「慈仙寺の鼻」と呼んでいました。慈仙寺という浄土宗西山派のお寺があったからです。総面積三千六百三十平方メートル、墓地九百九十平方メートルの一隅にこの墓石はありました。

説明板 2000/9/13

 墓の主は浅野藩の重役クラスで、建立は元禄二年(一六八九年)、どつしりした土台石に乗っかった墓石の上には五輪がありました。それが散乱した様は、原爆の爆風がどのようなものであったかをまざまざと示しています。

 爆心はやや北東部の上空約六百メートル、爆風は斜め上から吹きつけました。一秒間約四四〇メートルといわれる速度の爆風ですぐ上の大きな輪(りん)は吹き飛ばされ、舞い上がった小さな輪は次の瞬間生じた反動的な突風で手前に引さ寄せられました。散乱した石がそうした当時のすさまじさをありありと物語っています。

墓石の裏面 挟まった石が見える 2000/9/13

 また、たたきつけた爆風によって、さすが大きな墓石も本体が浮き上がりましたが、台座との隙間に引き寄せられた石の破片が飛び込んでいます。浮き上がった墓石は少し傾いたまま、飛び込んだ石片はその墓石を支えたまま戦後ずっと立ち続けてきたわけです。

 ところで、この遺跡はあまり人に知られていません。それはここが一見他のようになって目立たないうえ、取り立てて説明もないからです。

墓石の表面 2000/9/13

 しかし、この低くなって池のように見えるところこそ、被爆当時の広島の地面なのです。公園建設のため盛り土がされ、植樹がすすみ、かけがえのない遺跡が小さな空池のようになってきたわけですが、こうした事実は、公園建設時に次々掘り出されていた死没者の骨が、今なおこの地下にたくさんあるであろうことを暗示しています。

挟まった石が見える(左の墓石) 1954年

 なお、被爆の年の学位の夏休みは八月十日からだったうえ、当時は地域ごとの分散授業が行われていました。慈仙寺もそうした分教場の一つで、「大き骨は先生ならむそのそばに小さきあたまの骨あつまれり」という短歌も、作者の正田篠枝さんがここを通って川向こうの空鞘町の親戚に行ったとき見かけた光景ではないかとも言われています。

 これ以外の墓石約百五十は、現在、慈仙寺のある中区江波二本松に移されています。(「原爆碑・遺跡案内」刊行委員会『ヒロシマの声を聞こう』から)