慈仙寺
|
|||||
広い平和公園の敷地内で、被爆当時の姿をそのままとどめているのはこの墓石だけです。 墓の主は浅野藩の重役クラスで、建立は元禄二年(一六八九年)、どつしりした土台石に乗っかった墓石の上には五輪がありました。それが散乱した様は、原爆の爆風がどのようなものであったかをまざまざと示しています。 また、たたきつけた爆風によって、さすが大きな墓石も本体が浮き上がりましたが、台座との隙間に引き寄せられた石の破片が飛び込んでいます。浮き上がった墓石は少し傾いたまま、飛び込んだ石片はその墓石を支えたまま戦後ずっと立ち続けてきたわけです。 しかし、この低くなって池のように見えるところこそ、被爆当時の広島の地面なのです。公園建設のため盛り土がされ、植樹がすすみ、かけがえのない遺跡が小さな空池のようになってきたわけですが、こうした事実は、公園建設時に次々掘り出されていた死没者の骨が、今なおこの地下にたくさんあるであろうことを暗示しています。 なお、被爆の年の学位の夏休みは八月十日からだったうえ、当時は地域ごとの分散授業が行われていました。慈仙寺もそうした分教場の一つで、「大き骨は先生ならむそのそばに小さきあたまの骨あつまれり」という短歌も、作者の正田篠枝さんがここを通って川向こうの空鞘町の親戚に行ったとき見かけた光景ではないかとも言われています。
|
|||||