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広島逓信局    

広島逓信病院
  • 爆心地からの距離 1370メートル
  • 中区東白島町19番16号(基町)
  • 1935(昭和10)年11月竣工
  • 鉄筋コンクリート造/2階建一部3階・地下一階
  • 逓信省 山田守設計/坂本組施工

病棟南側の外観 1935年

 旧広島逓信局関係の付属病院として、一九三五年 (昭10) に地下一階・地上二階の鉄筋コンクリートで建坪一六〇〇u余りの病院として開院し、戦後は、新築されて現在にいたっている。

 爆心から北東へ約一四〇〇bに位置しており、爆風圧で窓はすべて吹き飛び内部も大破したが、倒壊はまぬがれた。午前九時ごろ、隣接する逓信局 (現中国郵政局)一階の西にあった病院の薬品庫から黒煙が上がったが、職員たちの必死の消火活動で大事にいたらずにすんだ。

1945年10月上旬

 その後、周囲の猛火が病院の二階におそいかかり、あわや全焼かと思われたが二階の大部分を焼いたのみで、一階への延焼はくい止めることができた。

 しかし、出勤していた院長ををはじめ医師や看護婦など三七人のうち死者五人、重症者七人、軽傷者二五人で、全員が被害をうけた。さいわい、万一のため入院患者は一ヵ月あまり前に全員を退院させていたので、その点での混乱はさけることができたという。

被爆建物の外来病棟 2000/9/5

 何とか焼け残った逓信病院には、負傷した被爆者が応急処置を求めて次つぎと押し寄せた。周囲の火勢も弱まり、一応おちついた午後四時ごろには、二百人をこえる重症者で足のふみばもないほどであった。その後も負傷者の数は増える一方で、病院内には収容しきれず庭や玄関口に横たわり、軽傷者は玄関から道路にかけて長蛇の列をつくった。

入口の説明板 2000/9/5

 ここでも負傷した医師や看護婦などが、負傷した被爆者の応急処置に精根こめてあたった。二階に保管してあった医薬品は全部焼けてしまったが、火災をまぬがれた一階などの薬剤や衛生資材を集めて、応急手当てをおこなった。

入口の看板 2000/9/5

 日が落ちて暗くなると、かき集めたローソクや焼け残った自動車のバッテリーを利用して照明にして、夜を徹して治療にあたった。こうして翌七日の明け方までに、七百人余りの負傷者の応急治療をおこなった。

現在の病院 2000/9/5

 八日になると、逓信局が疎開していた畳百枚ほどを収容患者のベッド代わりにし、内部が焼けた二階と逓信局の一階へ敷きつめて病室にあてた。しかし、毎日押し寄せる負傷者が増加するなかで、医薬品も底をつきはじめた。そうしたとき、十日に大阪逓信局から衛生材料を持った救援班がかけつけてくれたので、どうにか治療活動を続けることができた。

病院前の説明板 2000/9/5

 一方、壊れたり焼失したりして一台もなかった顕微鏡を苦心のすえ入手し、患者の血球検査をはじめた結果、白血球の異常な激減が認められた。その正体をつかむため二十六日に解剖のメスを入れたところ、医師たちの予想どおり原爆放射能による独特な症状であることがわかり、急性放射能症状の正体が見いだされたのである。

 広島逓信病院北側の旧外来病棟は、数しれない被爆者を治療した被爆建物であるが、被爆後も改修されて現存している。中国郵政局は、被爆五十周年行事の一環として、この被爆病棟の再修理と旧手術室を被爆タイルで改修した。そして、被爆前後の写真や当時の治療状況などの資料が展示されており、事前に連絡しておくと見学できる。

 新築された逓信病院の玄関前には、被爆した球形の飾り石と被爆時の写真と説明板が、当時の惨状を無言で訴えている。(植野浩著 汐文社「ヒロシマ散歩」から)