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空鞘神社
  • 爆心地からの距離 630メートル
  • 中区本川3丁目3番2号(空鞘町)

 
空鞘神社 2000/9/10

 毛利氏が広島城を築城する以前の一五三二年ころ、すでに現在地あたりに空鞘(そらさや)大明神と彦山明神の二社が創建されていたといわれている。その後、築城して広島入りした毛利氏の信仰もあつく、かなりの社領も有していたという。

説明板 2000/9/10

 江戸時代には、二度の火災にあったが、そのつど再建されて一八七二年(明5) には村社となった。また、大正期には社殿が新築され、舟入・吉島・中島などの広い地域もふくめた氏神として栄え、旧暦九月二十九日の祭礼は盛大なものであったといわれている。

 「空鞘」 の名は、創建のころ社頭の松の木に刀の鞘がかかっていたことで、それを社名にしたとの言い伝えがある。
 被爆時の社殿は木造の瓦ぶきで、境内の北側に二十人ほど入れる防空壕がつくられていた。

常夜灯 2000/9/10

 日本敗戦の年四月の新学期か ら、縁故疎開や集団疎開しないで市内に残っていた国民学校の子どもたちは、空襲などに備えて自宅近くのお寺や神社などで分散授業をしていた。空鞘神社でも、本川国民学校の子どもたちが分散授業を受けていたが、八月六日に何人が神社へ登校していたか不明である。

 爆心から西北へ約六〇〇bの空鞘神社は、一瞬のうちに社殿などは全壊して、炎のうずに巻きこまれてしまった。神社の東対岸へ逃れた人の証言では、西の広瀬方面から延焼してきたようで、その日の夕方見たときはすでに社殿なども焼け落ち、火もほぼ消えていたという。

被爆したこま犬 2000/9/10

 爆心に近い旧空鞘町は人的被害も大きく、即死者は85%と記録に残されている。そのとき神社内にいた宮司さんほか四人の家族や、神社へ登校してした本川国民学校の子どもたちは全滅したが、どのような状態で死にいたったか定かではない。

 神社東側の川土手筋は市街地から郊外へ逃れる被爆者で満ちあふれた。そして、全身を焼かれた人や顔面の皮膚がたれ下がった負傷者が、川土手に折重なるようになって倒れ、すでに息絶えた人も多数いた。

 翌七日から軍隊が出動して、集めた死体は川土手などで火葬されたが、遺骨はあちこちに散乱していたという。十五日を過ぎたころ、町へ復帰した何人かによって空鞘神社の境内に小屋を作った。そして、散らばっていた遺骨をたんねんに拾い集め、川土手にあった防空壕へ仮埋葬し、九月には小さなお堂を作って供養された。

常夜灯 2000/9/10

 空鞘神社の境内に作られたバラック小屋は、本川連合町内会の事務所として機能した。罹災証明の取扱いや、町に復帰する人びとの相談や依頼も受けるなど、市役所の出張所のような役わりを果してきた。

 空鞘神社のご子息は召集兵として戦地にいたが、被爆翌年に復員して宮司のあとを継いだ。しかし、復旧はなかなか進まず八年後の一九五三年(昭28) に社殿などが再建された。

相生橋から鷹匠町、空鞘方向を望む 1945年9月

 現在、爆風にも耐えた鳥居と熱線で傷ついた対のこま犬などが、原爆の威力と惨状を無言のうちに証言している。ことに社殿に向かって右側のこま犬は崩れかかるのを針金で補強してあるのが、見る人の胸にいたましくせまってくる。

 また、熱線をあびた手洗い鉢や、爆風で中の部分が欠けた石灯ろうなども、当時のまま保存されている。(植野浩著 汐文社「ヒロシマ散歩」から)