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広島市立高女の慰霊碑 「校歌」を歌いながら死んだ少女たち
  • 平和大橋西詰のたもと

広島市立高女の慰霊碑 2000/9/5

 東から平和公園に入ったところ。イサム・ノグチの手になる太陽と月をイメージした一風変わった平和大橋のたもとにこの碑はあります。

平和大橋 2000/9/5

 四十五年前、広島市立高女の一、二年生はこのあたりで建物疎開作業に従事中、職員・生徒あわせて六百七十六人全員が死亡しました。

 碑の前面に三人の少女が彫られていますが、真ん中の少女は動員当時の鉢巻きにモンペ姿、亡くなったことを象徴して背に天使の翼をもっています。左右のオカッパ頭の少女はスカート姿で今を生きる人々を表しています。

広島市立高女の慰霊碑 2000/9/5

 真ん中の少女が持つ箱には、E=MC(Cの二乗)とアインシュタインの相対性原理からとられた「原子力エネルギー」 の公式が彫られています。占領軍のプレスコード下で「原爆」 の文字が使われぬため工夫されたものです。

広島市立高女の慰霊碑の裏面 2000/9/5

 当時女学生・中学生たち (十二〜十六歳) は、一九四四年四月に文部省が出した「学徒勤労動員実施要領」 によって、授業は原則として停止されていました。三、四年生は工場で施盤などを使って兵器を生産し、一、二年生は「建物疎開」ということで、爆弾の類焼を避けるため建物を壊して広場を作っていたのです。

死没者の氏名 2000/9/5

 八月六日、この付近で作業を開始した市女の生徒は一人残らず灼かれました。大火傷した少女たちは元安川にのがれ、先生を中心に輪を作って、「校歌」を歌って励ましあいながら力つきて海へ流されていきました。この事実を伝えた一人の少女もやがて帰らぬ人となりました。

原爆慰霊碑 表と裏 2000/9/5

 それから二年たった夏、原爆資料館南側、平和大通りの工事現場から二遺体が発見され、小判型の名札、櫛、通学券、財布などが出てさました。市女作業隊の携行品置き場で、体調の悪かった二人が番人として残っていたのだと思われます。爆風で塀が倒れ、下敷きとなり、その後焼かれたのでしょう。発見当時現場に立ち会った教師は、日記に 「一瞬の出来事で、苦しみのあとなし。親に遺骨を引さ渡す」と書いています。

 碑は、一九四八年、三周忌を記念し遺族会の手で「平和塔」として校内に建てられました。それは、「校内に宗教的なものを建てるな」という文部省の通達によるものでしたが、占領軍の思惑もあってそれさえ一時戸板 (へさか) の持明院に移される状況でした。

 生徒たちが亡くなった現在地に移設されたのは、講和後の一九五九年です。(「原爆碑・遺跡案内」刊行委員会『ヒロシマの声を聞こう』から)