広島市立高女の慰霊碑 「校歌」を歌いながら死んだ少女たち
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東から平和公園に入ったところ。イサム・ノグチの手になる太陽と月をイメージした一風変わった平和大橋のたもとにこの碑はあります。 四十五年前、広島市立高女の一、二年生はこのあたりで建物疎開作業に従事中、職員・生徒あわせて六百七十六人全員が死亡しました。 真ん中の少女が持つ箱には、E=MC2(Cの二乗)とアインシュタインの相対性原理からとられた「原子力エネルギー」 の公式が彫られています。占領軍のプレスコード下で「原爆」 の文字が使われぬため工夫されたものです。 当時女学生・中学生たち (十二〜十六歳) は、一九四四年四月に文部省が出した「学徒勤労動員実施要領」 によって、授業は原則として停止されていました。三、四年生は工場で施盤などを使って兵器を生産し、一、二年生は「建物疎開」ということで、爆弾の類焼を避けるため建物を壊して広場を作っていたのです。 八月六日、この付近で作業を開始した市女の生徒は一人残らず灼かれました。大火傷した少女たちは元安川にのがれ、先生を中心に輪を作って、「校歌」を歌って励ましあいながら力つきて海へ流されていきました。この事実を伝えた一人の少女もやがて帰らぬ人となりました。 それから二年たった夏、原爆資料館南側、平和大通りの工事現場から二遺体が発見され、小判型の名札、櫛、通学券、財布などが出てさました。市女作業隊の携行品置き場で、体調の悪かった二人が番人として残っていたのだと思われます。爆風で塀が倒れ、下敷きとなり、その後焼かれたのでしょう。発見当時現場に立ち会った教師は、日記に 「一瞬の出来事で、苦しみのあとなし。親に遺骨を引さ渡す」と書いています。 |
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