平和乃観音像と復元地図 消された街への思慕
|
|||||||||
原爆はそれらすべてを破壊しました。住民、勤め人、その日訪れた人や家屋疎開の動員者のほとんども一瞬にして消え去ったのでした。 しかしここにやがていろいろな人が帰ってきます。軍隊、工場、田舎から。それに疎開先から帰ったら孤児になっていた子供たちも。彼らによってここにバラックの町ができたのでした。 やがて平和公園の建設が始まりますが、その頃の様子を財団法人広島平和文化センター発行のパンフレットはこう紹介しています。 「敷地内に不法建築のバラック小舎が四〇〇戸もありました。これを県が一二〇戸、市が二八〇戸と分担して撤去作業にかかりましたが被爆者もたくさんいて、なかなかはかどりませんでした。」 他の地域と同じように人びとがやっと焼け跡に根つき始めたころ、ここでは町の取り壊しが始まっていたのです。被爆者、引き揚げ者、他地区からの移住者、疎開帰りの原爆孤児たち。住民の事情はさまざまでしたが、敗戦直前の建物疎開と原爆による破壊、それに続いての公園建設を口実とした立ち退き。根こそぎ消されていく故郷への熱い思慕が、人々に観音像の建立と地図復元を思い立たせたのでした。
生き残った人々の手で中島本町会が結成され、米軍撮影の航空写真を手がかりに地図の復元作業は進められました。「ここは煙草屋だった」「ここにポストが」。記憶だけが頼りの作業です。当然のことながら空白の部分もたくさん残っています。また、その地図が載せられている煉瓦塀残骸のそばに死没者名簿がありますが、ここに刻まれた以外にも氏名不詳、また調査不能な死者が多数あることはいうまでもありません。 「平和乃観音像」は一九五六年八月六日に建立されました。作は彫刻家荒井秀山氏。 |
|||||||||