原爆供養塔 七万人の遺骨が眠る
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広島には太田川が枝分れし六つ (戦前は七つ)の川が流れています。三方を低い山に囲まれ、その中にたくさんの川がある広島は、どこに行くにも川を渡らなくてはなりません。原爆投下後も、職場や学校から自宅に帰ろうとするもの、身内を探すもの、病院や救護所に行くもの、田舎に避難しようとするもの、誰もが川を渡ろうとして岸辺に集まってきたものでした。 しかし、橋の多くは壊れたり焼け落ちたりしているうえ、満潮の直後だったため簡単に渡ることができません。しかたなく飛び込むもの、身体を包む炎を消そうとしたり、のどの渇きに耐えかねて川に入るものもあとを絶ちませんでした。そして無数の被爆者が力つさて死んでいったのです。 こうして亡くなり火葬にされた人びとの遺骨は戦後あちこちにありましたが、一九四六年に宗派を超越して結成された広島戦災供養会の手でこの場所に納骨堂ができ、そして市内各地に仮埋葬されていた遺骨もここに集められたのです。 遺骨の中には、名前の分かっているものが千数百人ありました。さらに各地から身よりのない遺骨が寄せられ、被爆十年後の一九五五年七月一日には二千四百三十二人になつています。その名簿が毎年公開し遺族を探していますが、被爆五十周年を迎える一九九五年六月末現在なお八百七十七人の引取り手のない遺骨がこの塚には眠っています。 毎年八月六日、広島県宗教連盟が中心となって宗教、信仰の違いを超えた行事がここで行われます。それは、核兵器を地上から一掃するため、思想・信条の相違を越えての統一が必要であるだけでなく、それが現実に可能であることを具体的な姿で教えているといえるでしょう。(「原爆碑・遺跡案内」刊行委員会『ヒロシマの声を聞こう』から) |
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