大本営
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その広島城本丸跡上段には旧大本営の礎石が残り、傍らに「明治二十七、八年戦役広島大本営」の石碑(一九三五年・文部省建設)がある。 一八九三年、日清戦争に備えて「戦時大本営条例」が制定された。翌年六月五日、これを受けて大本営が東京の参謀本部内に設置され、八月一日には清国への宣戦布告とともに宮中に移された。さらに九月一五日、明治天皇の「広島行幸」とともに、広島城内の第五師団司令部に移されることになったのである。天皇をはじめ、政府・軍部の首脳は広島入りし、ここで戦争指揮にあたった。 広島に大本営が置かれたのは次のような事情による。 大本営の南、西練兵場内には国会議事堂も仮設された。ここで一〇月一八日から二一日まで臨時帝国議会が開かれ、一債五〇〇〇万円にのぼる莫大な臨時軍事予算が可決されたのである(一八九三年当時の国家財政規模は約八五〇〇万円)。こうして、一八九五年に日清講和条約が調印され、天皇が広島を離れるまでの約七カ月問、広島はまさしく臨時首都になったのである。 一九四五年の原爆は、木造白亜二階建ての大本営を破壊。いまは礎石しか残っていない。また、西練兵場にあった天皇の休息所(御便殿)は、比治山公園北端の広場に移築されていたが、原爆によって倒壊した。こちらは礎石も残っておらず、現在では、門柱と二基の灯篭を残すのみである。(平和文化「ドキュメンタリー原爆遺跡」より) |
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