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大本営
  • 爆心地からの距離 790メートル
  • 中区基町21番(基町)
  • 竣工時期不詳
  • 鉄筋コンクリート造/半地下一階
  • 設計・施工不詳

大本営 1930年頃


 「鯉城」と呼ばれる広島城は、約四〇〇年前の一五九一年、毛利輝元によって築城された。春ともなれば桜が咲き乱れ、花見客でにぎわう。いうまでもなく、五層の天守閣は戦後の再建である。

大本営の礎石 2000/9/5

 その広島城本丸跡上段には旧大本営の礎石が残り、傍らに「明治二十七、八年戦役広島大本営」の石碑(一九三五年・文部省建設)がある。
 大本営とは、「戦時大本営条例」によって設置される、戦時または事変の際の最高統帥機関である。

大本営跡 2000/9/5

 一八九三年、日清戦争に備えて「戦時大本営条例」が制定された。翌年六月五日、これを受けて大本営が東京の参謀本部内に設置され、八月一日には清国への宣戦布告とともに宮中に移された。さらに九月一五日、明治天皇の「広島行幸」とともに、広島城内の第五師団司令部に移されることになったのである。天皇をはじめ、政府・軍部の首脳は広島入りし、ここで戦争指揮にあたった。

大本営を示す石柱 2000/9/5

 広島に大本営が置かれたのは次のような事情による。
 一八八七年から山陽鉄道会社の神戸・下関間の工事が開始され、九四年には広島まで開通した。これによって、一八八九年までに築港を完成していた宇品港が絶好の派兵拠点となり、陸軍の「軍用港」に指定された。国内唯一の兵站基地としてきわめて重要な軍事的位置を占めることになったのである。また、天皇が戦争の最前線で指揮にあたるというイメージは、当時、反戦気運の動きもあった国民をなだめ、議会の協力を得るのに有効な政治的効果があった。

石柱の側面 2000/9/5

 大本営の南、西練兵場内には国会議事堂も仮設された。ここで一〇月一八日から二一日まで臨時帝国議会が開かれ、一債五〇〇〇万円にのぼる莫大な臨時軍事予算が可決されたのである(一八九三年当時の国家財政規模は約八五〇〇万円)。こうして、一八九五年に日清講和条約が調印され、天皇が広島を離れるまでの約七カ月問、広島はまさしく臨時首都になったのである。

 つづく一九〇四年の日露戦争でも広島は国内唯一の兵姑基地としての役割を果たした。広島にはその後も軍関係の諸施設が集まり、呉線の開通によって呉軍港との結びつきも
深められた。このように軍都としての性格を強めた広島は、日本の戦争政策とますます深い関係をもつようになるのである。

説明板 2000/9/5

 一九四五年の原爆は、木造白亜二階建ての大本営を破壊。いまは礎石しか残っていない。また、西練兵場にあった天皇の休息所(御便殿)は、比治山公園北端の広場に移築されていたが、原爆によって倒壊した。こちらは礎石も残っておらず、現在では、門柱と二基の灯篭を残すのみである。(平和文化「ドキュメンタリー原爆遺跡」より)