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四、金輪島に八月六日を尋ねて
山 内 幹 子 |
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おおぜいの被爆者が運ばれ、山中高女の生徒も十四名がここで死亡された金輪島に、いつかは訪れたいと思っていたが、ようやくその機会に恵まれた。
広島に新型爆弾が落ち、全滅したという噂が流れたのは十時頃だった。昼頃から被爆者が上陸用舟艇でどんどん運ばれてきた。桟橋から担架で講堂や兵舎に運び、莚や毛布の上にねかせられた。
男女の区別もつかない焼けただれた被爆者が満員電車のようにすし詰めに並べられて、広い講堂やあちこちの兵舎もいっぱいで、外にも寝かされていた。身体も自由にできず、うつろな目で 「水、水」 と訴えるひと、泣さ叫ぶ人、発狂したように喚き歩く人たち、呻き声の狂乱の中で、次々と息を引きとっていった。「水を与えると死を早めるので与えないように」 との命で、水は許されず、薬も大変不足しており、少ないチンク油、赤チンをうすくのばしながら塗ったり、小麦粉を練ったもの、人参、じゃがいもの卸したものも使った。傷口から這い出るうじ虫をピンセットや箸で取って歩いた。おも湯や粥を冷やしてロに入れると、おいしいおいしいと喜ばれた。又、市内から運ばれたと思われる焼けたみかんの缶詰なども与えた。包帯をしたり、排泄
大変困難な看護が不眠不休で数日続けられた。男子工員も、実に献身的な看護活動をしたのには頭が下がった。
火傷臭と死臭の漂う収容所内で何度も遺体の搬出を頼まれた。船で似島や小屋浦へ移動されたようだ。
島を南東に歩くと、海側に、木造の元兵舎だった長い建物があり、現在はドッグの事務所として使われている。反対の山側は壕が三つばかりある。この中の一つは、かつて山の冷たい湧水が流れ、コンクリートで大きな水だめが作ってあり、他所へ配水したと思われるさびた鉄管が伸びていた。更に進むと、右手に、昔、酒保だったという荒れたコンクリートの土台が見える。更に奥へコンクリートの水槽らしいものがあり、そして木造の南北に伸びる建物で道は終わる。ここはかつて木工所として使われていたそうで、今も老朽はしているが、もとのまま使われている。
山あいを入る道を登ると、かつて兵舎であった所に民家が数軒あり、皆、戦後の入植者であるという。段々畠で仕事中の高年の婦人に、お墓はないかと尋ねてみると、お宮の上の方に、道がないからわかりにくいが、兵隊さんと看護婦さんの墓があるとのこと。早速探しに山を登る。目標は高い松の木だ。急傾科の坂を、潅木や草をつかみながら登る。松の木のあたりは、潅木がおいしげって、とてもみつからない。又登る。ふと目の前にぽっかりと、明らかにそれらしいものが現れた。小さな墓標が二本ころがり、少しこんもりと土石が高く、花立てらしいものもある。長らく手入れをされたあとのない、山と一つになったおもむきの墓だ。二本の墓標には 「無名戦士の墓」 と読みとれる字がある。ああ、あった!草を抜き、穴を掘って墓標を立て、秋草を手折って捧げた。小野文子さんが線香とろうそくを上げられみんなで手を合わせた。
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15分後の「きのこ雲」 原爆資料館に提供 中国新聞2002/9/12 |
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爆心地の南東約六キロの金輪島(南区)で撮影
広島への原爆投下の約十五分後とみられる「きのこ雲」の写真五枚が、撮影者の小平信彦さん(83)=東京都目黒区=から広島市中区の原爆資料館に提供された。爆心地の南東約六キロの金輪島(南区)で撮影し、地面から雲の頂点までを上下二分割でとらえた連続写真がある。資料館は「原爆投下直後の全体状況を知る貴重な資料」とし、十九日から一般公開する。 小平さんは当時、陸軍技術大尉として金輪島の野戦船舶本廠(しょう)修理部にいた。事務作業中に青白い光と爆風を受け、近くの宿舎に置いていたカメラを持ち出して十五分後に撮影したという。 上下二分割の写真は、軍需工場の煙突が並ぶ宇品(南区)の光景も写っている。他の三枚は宿舎の屋根越しなど。資料館が所蔵するきのこ雲の写真はほかに、個人六人と米軍撮影分の計十一枚あるが、比較的近距離から地面も含めて雲の全体像を撮影したのは初めて。 小平さんは終戦後、ネガを自宅に保管していた。今年夏にテレビで原爆資料館を紹介する番組を見て、「自分の写真も役立ててほしい」と提供を思いたったという。「火薬工場が爆発したかと思った。最初はクラゲのようなピンク色の雲だったが、慌ててカメラを取ってきたら、既に入道雲のようになっていた」と当時を振り返っている。 小平さんの写真は、十九日から十月十五日まで、資料館内にパネル展示される。 【写真説明】小平さんが金輪島から撮影した原爆きのこ雲(上下2分割で撮影) |