しんぶん赤旗2002/7/29〜8/8


社史が語る戦争・原爆  
島病院

 


爆心直下


瞬時に命を奪われた

爆心地・島外科の銅版写真

 夏の日差しが照り付ける六月のある日、原爆ドームの近くにある建物の前。フィールドワークで広島を訪れた学生たちが立ち止まり、被爆直後の銅版写真が入った案内板に見入っていました。

 それには、「爆心地」の表示に続いてこうあリます。「テニアン島から飛来した米軍機B−29『ユノラ・ゲイ号』によって人類史上最初に使われた原子爆弾は、この上空約580bでさく裂しました。爆心直下となったこの一帯は、約3000度〜4000度の熱線と爆風や放射線を受け、ほとんどの人びとが瞬時にその生命を奪われました。……」

 爆心直下、島外科病院です。旧細工町に一九三三年に開設。四百坪の敷地に、レンガ造り二階建て、中庭を抱えてコの字形に約五十の病室がありました。

 町内には島病院を含め五つの病院があり、なかでも島病院は「盲腸もすぐ治る」と評判がよく、低料金で入院できたことから、いつも患者でいっぱいだったといいます。
「あの日」も病室には多くの患者が入院していました。

 当時の病院長・島薫さん(一九七七年没)は「八十人ばかりの人が亡くなった」と回想記に記しています。(一九八三年刊『島薫あれもこれも』=以下、「遺稿集」)

    ◇

 あれから五十七年、島外科病院と周辺の町をめぐる人びとの証言を通して、消えた爆心の町の実相に迫ります。


一枚の写真

再び顔そろうことはない

島病院中庭での写真。島薫院長と親族、病院関係者が集まった
=1943年8月撮影・島一秀氏提供

一枚の写真があります。

 病院の中庭に島院長とその家族と親せき、病院の看護婦、レントゲン技師らが集まりました。

 前列左から四人目が島院長、その左が長男の島一秀さん(六八)=現院長=。一秀さんは当時十歳。庭の一角にはサルや烏を飼う小屋があり、ある時、サルが逃げて大騒動になることも。隣にあったビリヤードにもよく通いました。一秀さんの幼少の思い出です。

 しかし写真から二年後、同じ人びとが再び顔を揃えることばありませんでした。

 一秀さんが原爆投下の知らせを聞いたのは、学童疎開先の比婆郡西城町でした。「すごい爆弾が落ちたらしい。父はどうなったのか」。親から離れ慣れない生活を送る小学五年生の小さな胸は不安ではちきれそうだったといいます。

 その時、父親の島院長は世羅郡甲山町の知人の病院にいました。年に一、二回、呼ばれて出張手術をすることになっていたのです。

 直腸がん、胆石症、慢性虫垂炎の三人の患者が待っていました。早朝病院に到着し一人目の手術を行っているときでした。

 「広島は空襲にて全滅。ただちに広島に救護に行ってください」
 電話連絡を受けた島院長は、一人目の手術を終えた後、同行の看護婦とともに広島に戻ることになりました。


黒焦げの遺体

「これは婦長さんです」

島外科病院の廃墟(手前)
右手に倒壊を免れた護国神社の鳥居=1945年11月

 島院長らが広島市に近づいたのは午後七時前。列車は手前の矢賀駅でストップしたため、そこから歩いて市内に入りました。「見渡すかぎり町の上空には煙が広がり、あちこちに火が空に向かって燃え上がってい」ました(『遺稿集』)。焼け跡の熱気で病院には近づくことはできませんでした。

 島さんが病院の姿を目の当たりにするのは、七日午後のこと。壁の厚さ一b以上、「広島最古のレンガ建て」と自慢だった建物は…。「あんなに堅固であると思っていた私の病院が紙のように破壊しさられたことを明瞭に認めることができた。玄関の両側の二本のコンクリートの柱以外には何物も残っていなかった」
(『遺稿集』)。

 その柱の一つに、黒焦げの女性の遺体が倒れかかるようにありました。遺体の口の中には歯の矯正手術のあと、さらに歯科整形の処置を見つけて、同行の看護婦はいいました。「これは婦長さんです」

 レンガのがれきの中からは多くの白骨化した遺体が見つかりました。

 悲嘆にくれて廃虚の中を歩く中で、島さんはアルミの箱につまずきました。外遊中に買った器具ケースでした。入っていた手術用具は、変色はしていたものの使用には耐えるものでした。島さんにとって、「その器具が島病院の唯一の痕跡」(『遺稿集』)となりました。


救護活動

助け求める声、声、声

救護所となった袋町国民学校(爆心地から460b)。島病院長もここで被災者の救護にあたった
=菊池俊吉氏撮影

 広島市に戻った島院長はただちに被災者の救護活動に取り組みました。

 商工会議所前の広場−−。多くの負傷者が押し寄せていました。みんな裸身でした。暗くてけがの見分けはつきません。しかし、その状態が悪いことは感じとることができたといいます。

 「島病院の院長だ。しっかりさっしゃいよ」

 負傷者を励ましながら、夜を徹しての手当て・・・。

 島さんは、わずかな救急資材を手に、見つけられる限りの人に心臓の刺激剤を施し、川に浸したタオルから患者の口に水を与えました。

 疲れ果てて負傷者の間に身を横たえ、眠る間もなく耳に入ったのは、助けを求める少女の声でした。川を隔てた方角から聞こえる悲痛な叫びに眠りを中断されながら、島さんが目覚めたのは七日午前五時ごろ。

 手当てのかいなく、負傷者の多くは亡くなり、生きながらえた人も動くこともできず静かに横たわっていました。

 そして周りは廃虚となった町。こげていびつになった電車やひん曲がったレール、落ちてぶら下がった電線や折れた電柱・・・。

 島さんはこう回想しています。

 「数週間前には呉が、そして今度は私の町広島が! 私の眼には涙が一杯たまった。『戦争とはこんなものか』と自問した」 (『遺稿集』)


病院のある街で

肉親の死 遺骨もなく

戦争の愚かさを多くの人に知ってほしいと語る田中俊明さん

 島病院のある細工町。被爆前まで五百二十四人が暮らしていました。田中俊明さん(八五)はこの町で生まれ育ちました。

 実家は食料品店を営んでいました。島病院から氷の注文があり、田中さんが配達に出かけたこともあったといいます。

 「玄関を入ると診察室。その横の階段の下に氷専用の箱があり、そこに納めていました」 手術や入院患者に使うためのものでした。

 原爆投下時、田中さんは二十八歳。暁部隊(陸軍船舶部隊)に所属していました。爆心から三・三`b、宇品の教育隊で被爆。

 「ガスタンクでも爆発したのか」と思っていると、周りは砂煙で何も見えなくなりました。幸い大きなけがはありませんでした。

 田中さんは軍の命令で救護活動へ。御幸橋西詰あたりで、避難してくる被災者をトラックに載せて宇品の部隊まで運ぶ指示にあたりました。

 家族の安否を知るため細工町に戻ったのは七日。家の残がいの中、妻と一歳になる長女は白骨化した遺体で見つかりました。

 「それは子どもを背負ったようなかっこうでした。なんとか逃げようとしていたのでしょうか」 

 配給の物資をとりに出かけていた母親は八日後に亡くなり、父親は遺骨もなく、一片の通知で死亡したことを知りました。


35枚の絵

鉛筆画に残すわが町

被爆前後の爆心地の街なみを描いた
絵を前に、語る森冨茂雄さん

 「これが私の町です」

 広島市西区の森冨茂雄さん(七二)がスケッチブックから一枚の絵を取り出しました。

 鉛筆で細密に描かれた家並み、元安川に浮かぶ小舟、産業奨励館のドーム…。被爆前の街並みが再現されています。

 森冨さんの町は細工町です。島外科病院の四軒隣。実家は寝具店でした。絵の中には、島病院を描いたものもありました。鳥かん図のようなアングル。「子どものころ、家の屋根にあった物干し台から眺めたイメージ」といいます。

 「あの日」、森冨さんは学徒動員先の三菱重工の工場(爆心地から二・五`b)にいました。爆風で工場は全壊しましたが、建物の谷間に逃げて助かりました。

 実家では父、祖母、末の弟、親せきの一人が即死。同学年の弟も学徒動員に出ていて死亡しました。焼け跡から見つかった骨は判別がつかず、弟と含め五等分して墓に眠っているといいます。

 森富さんが絵を描きだしたのは十年前。「当時の町や体験したことを子どもたちに残してやりたい」と思い立ったからです。三年前に脳こうそくを患いましたが、絵を描く意欲に変わりはありません。一枚に一カ月費やす力作も、三十五作品になりました。

 「二度と原爆を使用させてはいけない」一枚一枚の絵には、森冨さんの平和を願う気持ちが込められています。


旧天神町住民の証言

これが「死の世界」か

子どもたちの遊び場だった天神町のメーンストリート・天神町筋
=1940年ごろ、菊地繁三さん撮影

 原爆資料館に畳三畳分ほどの鋼板図が展示されています。

 爆心地・中島地区の復元地図――。今の平和記念公園あたり、そこに五つの町、三千七百七十九人の生活があった証です。

 広島県府中町の山崎寛治さん(七二)はその一つ、天神町の元住民です。

 元安川に沿った細長い町。そこには飲食店、洋服屋、傘屋、薬屋、炭屋、旅館などが軒を連ねていました。「日常品は何でもそろい、人情豊かなとても住みよい町だった」と振り返ります。

 「ゆうれい小路」とも呼ばれた迷路のような街並みは子どもたちにとって格好の遊び場。一本ざおの舟をこいだり、河原で野球に興じたことも、思い出のひとこまです。

 城下町の面影を残す町の暮らしも、一発の原爆で暗転しました。

 山崎さんは母校(広島二中=爆心地から一・五`)での教練に出かけていて被爆。木造二階建ての建物の下敷きになり、「黒い雨」に打たれながらも、翌日、自力ではいだし天神町に戻りました。

 川には無数の死体、がれき、助けを求める叫び声。「これが死の世界なのか」。「あすはわが身」と覚悟をしながら、川の水、カニやイモで飢えをしのぎ三日間を過ごしました。
 しばらくして山崎さんに思いがけない出来事が起こりました。


旧天神町住民の証言

「いとこの死」が原点

天神町北組の跡の碑 2002/8/10

 被爆前から山崎さんの実家に身を寄せていた、名古屋のいとこが無事な姿を見せたのです。一人っ子だった山崎さんにとって、よき遊び相手で、相慕いあった彼との再会は「人生最高の喜び」でした。

 しかし、その喜びもつかの間、名古屋から悲しい知らせが届きました。被爆から二十日後のことでした。原爆の後遺症で髪の毛が抜け、病の床では山崎さんの名前を呼びながら息絶えたといいます。

 「なぜ賢太郎くんは死ななければならなかったのか」――。人間を破壊し残された人の人生をも変えてしまった原爆。いとこの死は、原爆を語る山崎さんの原点になりました。

 そして現在、再び核兵器使用をたくらむアメリカには強い憤りを感じるといいます。「真の人間性に立ち返って、核兵器廃絶の先頭に立つべきだ」

 平和記念公園の一角、原爆資料館東館近くに天神町で犠牲になった人たちをしのぶ「天神町北組の跡」の碑があります。

 山崎さんは毎日のようにここに通い、犠牲者の氏名が刻まれた碑の前に立ちます。ときには修学旅行で公園を訪れる子どもたちに、体験を語りかけます。

 「忘れないでほしい。この地に多くの人びとの生活と故郷があったことを。それを瞬時のうちに奪い去ってしまったのが、戦争・原爆であると」

天神町北組の跡の碑 2002/8/10




再建

平和と貧しき者にささぐ

戦後3年目に再建された島外科病院

 話は島外科病院のその後に戻ります。

 廃虚の中から、病院が再建されるのは、被爆から三年後のことでした。がれきだらけの敷地を整理し、建てられた木造モルタルの建物。そこで再び診察が開始されました。

 爆心地とされた中庭には、「記念になるものを」と、赤いバラをはわせた四本のやぐらが建てられました。以前から花を育てるのが好きだった島薫院長が、知人からのすすめを受けてつくったものでした。

 当時のマスコミも紹介しています。

 「この爆心のヤグラと花園はひと目でながめることができ、患者さんたちは毎日数をましてゆくヤグラの平和のバラや四季の花園をながめて病身をなぐさめている」(「遺稿集」)

 「平和のバラ」に託した思いとはどのようなものだったのでしょうか。

 島さんは戦後、原爆のことはあまり語らなかったといいます。長男の一秀さんは「戦争中の話は母親から間接的に聞くだけだった」と話します。

 そんな島さんが残した言葉――。

 「私の新病院は平和と貧しき者、窮乏したる者を世話することにささげられているのである」(「遺稿集」)

 島外科病院は、爆心地の惨禍を乗り越え、今年、開業から六十九回目の八月を迎えました。