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ABCC(現放射性影響研究所)
  • 南区比治山公園

正面入口 2000/9/3


  原爆が人体に与える影響の調査機関旧A8CC(現放射線影響研究所) 比治山の南側山頂に、一風変わったカモボコ型をした建物が何棟か建っている。延べ面積は九千六百平方b余りで、正門の標識には 「財団法人放射線影響研究所」と書かれている。同所
発行のパンフレットによると、次のように説明されている。

  『昭和22年以来、米国学士院の創立にかかわる原爆障害調査委員会 (ABCC) は厚生省の国立予防衛生研究所と共同で、被爆者の広範な健康調査を行ってきました。

 昭和50年4月、更に長期にわたって調査研究をする必要性から、日本の法律に基づく財団法人放射線影響研究所に再編されました。経費は日米両国政府が同額を分担し、学術的には専門評議会の勧告を得て事業を運営しております。……』

2000/9/3

 さらに調査研究の概要として寿命調査・成人健康調査・病理学的調査・遺伝学的調査・原爆放射線量の再検討があげられ、日米の役職員約三三〇名が研究事業にあたっているということである。

 一九四五年 (昭20) 八月十五日の敗戦後、日本に上陸してきたアメリカ占領軍は同年九月十九日、情報や報道を規制するプレスコードを指令し、なかでも原爆に関する報道などが厳しくコントロールされた。

 また、外国の記者が広島・長崎へ入るのを四カ月も禁止するとともに、マンハッタン計画の副責任者は、『広島・長崎では死ぬべきものは死んでしまい、九月上旬において、原爆放射能のため苦しんでいるものは皆無である。』 と発表した。

 その一方でアメリカ大統領は、原爆症の調査研究を目的とする 「原爆障害調査委員会(ABCC)」の設置を命令した。名目上は、米国学士院がABCCを設立するとなっているが、米国の法律でできた機関であり費用はすべて国家から支出されている。

2000/9/3

 一九四七年 (昭22) 三月、広島赤十字病院にABCCの事務所を設け研究調査活動が開始されたが、厚生省所轄の国立予防衛生研究所も協力させられた。それから二年後、比治山公園の南側山項に本格的な建設が計画され、当時の広島市長などは反対したといわれているが、まもなく工事は着工された。そして一九五一年 (昭26)一月に、鉄筋二階建て約三千九百平方b余りのカマボコ型のABCCが完成したのである。

 一九七五年 (昭50) に現在の放射線影響研究所へ再編成されるまでの28年間、旧ABCCはアメリカの管理のもとに、原爆が人体におよぼす影響などを調査研究してきた。被爆四十日後に広島入りし、被爆者の診療と病理解剖にあたった杉原芳夫博士のことばをかりると、まさに「加害者が被害者を調査研究する」行為が28年間行われてきたのである。

 旧ABCCでは、長年にわたり収集した数十万人の被爆者名簿から一定数が調査対象標本として抽出され、研究目的にしたがって該当する被爆者を呼びだし、いろんな検査をおこない集められたデータを解析する方法がとられていたという。

 「調査研究の対象にはするが、治療はしてくれない」ことが明らかになった一時期、被爆者などによる旧ABCCの撤去運動が行われたことがある。また、この時代に収集・解析された膨大な資料の大部分は、アメリカに持ち帰られたといわれている。(植野浩著 汐文社「ヒロシマ散歩」から)