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広島貯金支局
  • 爆心地からの距離 1610メートル
  • 中区東千田町1丁目15番(千田町1丁目)
  • 1937(昭和12)年7月竣工
  • 鉄筋コンクリート造/4階建・地下1階
  • 逓信省 山田守設計/藤田組施工


北東側からの全景 1937年頃


 郵便貯金の制度は1875(明8)年に始まった。当初は手続きが煩雑で不人気だったというが,日露戦争の行賞を現金でなく行賞貯金などで渡されたことにより,急激に預金高が伸長し,さらに金融恐慌時には確実な預金方法として普及していった。

南東側からの全景 1945年10月

  1934(昭9)年には通信事業特別会計制度が実施されたことにより,事業拡張の一環として各地に貯金支局が新設されることになった。35年10月には広島にも貯金支局が設置され,37年7月鉄筋コンクリート造によるこの局舎が完成した。
 この時期,日中戦争が始まり国民貯蓄増強施策がとられ貯金支局の業務量も増大していった。

モニュメント 2000/8/30

 地下1階地上4階建てのこの局舎は広島逓信局同様,支局を誘致した広島市が建設し国に貸与するという方式で建設された。用地は江波山に移転した広島測候所の跡地が充てられた。2〜4階は貯金課の事務室に充てられ,階高を高くとって北側に2層ずつの原簿保管室が配置されていた。1階には郵便局や事務室が設けられ,地下にはボイラー室や倉庫が設置されている。設計者の山田守は建物の角を丸めるデザインを大正期から引き続いて行っているが,1930年代後半には逓信省風の国際派スタイルとして,柱の間に目一杯の窓を設けるスタイルを完成させる。2〜4階は幅2.8メートル,縦3メートルという大きな窓で,貯金事務室は随分と明るい室であったと思われる。

 しかしこのような大きい窓は爆風には弱点となり,窓には爆風避けの防備がされていたが多くの負傷者を出し,消火活動の結果類焼は免れたものの,内部は家具や用紙が散乱し足の踏み場もないほどだった。このとき分室を含めて職員571人,動員学徒約300人が勤務しており,職員67人,学徒17人が死亡した。地下室は比較的損傷が少なく,多くの負傷者の避難場所となった。この時のエピソードをもとに詩人栗原貞子は「生ましめん哉」を創作し,人びとの感動を呼んだ。(広島市『ヒロシマの被爆建造物は語る』から)

金網越しの空地が貯金局跡
2000/8/30