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峠三吉の詩碑  にんげんをかえせ
  • 1963年8月6日建設

詩碑表面 2000/9/2

 「ちちをかえせ ははをかえせ…」と刻まれたこの碑は、一九五三年三月十日に亡くなった峠三吉を記念して建てられたものです。

 峠三吉は、碑が面している南東約三キロの自宅で被爆しました。直接にはガラス破片による負傷でしたが、親戚や知人を探して市内を歩き回ったため原爆症にかかり九月まで入院しました。一九一七年生まれ。広島県立商業学絞を卒業した峠は、在学中から詩や短歌、俳句など作り続けた文学少年でした。病弱だった彼は、二十五歳のときキリスト教の洗礼を受け、その三年後二十八歳で被爆し敗戦を迎えました。

詩碑裏面 2000/9/2

 原爆を体験し、侵略戦争の本質を知った峠は、戦後全力で青年運動、文化運動、憲法普及活動などに取り組み、それらを通じて米軍占領下での原水爆禁止運動の先頭に立つようになります。平和擁護大会の議長団や決議文起草委員の中には、いつも彼のやせた姿が見受けられたものでした。

詩碑側面 2000/9/2

 峠三吉は、原爆禁止や文化運動の発展にとって働く人びとの団結が大切と考え、一九四九年十月「われらの詩の会」を結成します。そして、日本再軍備の気運が高まる中で、原爆反対、平和擁護の作品を次々発表してきました。

 「反戦詩歌人集団」を結成して「反戦詩歌集」第三号を発行したのは一九五〇年五月。 やがて朝鮮戦争が始まると、占領軍による原爆反対運動への弾圧はいっそう激しくなり、八月六日には集会はおろか慰霊祭すら禁止される状態でしたが、その中で「反戦詩歌集」二号を発行するとともに、原爆反対の作品を書き続けました。その年十月、トルーマン米大統領が「朝鮮での原爆使用もありうる」と声明するや直ちに「原爆詩集」 の発行を決意、療養所で喀血しながら詩作を続けました。そして翌五一年、ガリ版刷り「原爆詩集」を非公然に出版。碑に刻まれた「ちちをかえせ…」はこの詩集の序として書かれたものです。

詩碑の拓本

 峠は、原爆の実態を明らかにするにはもっと壮大な「叙事詩広島」を書くことが必要であると思い、その創作に耐えうる健康回復を願って手術を受けましたが、途中力尽きて三十六年の生涯を閉じたのでした。

 この碑は、そうした峠三吉の遺志を継いで核兵器廃絶に力を尽くそうと、「平和のための広島文化会議」が呼びかけて一九六三年に建設されたものです。
デザインは画家の四国五郎氏。(「原爆碑・遺跡案内」刊行委員会『ヒロシマの声を聞こう』から)

2000/9/2

 

にんげんをかえせ

一九五〇年八月六日

倉庫の記録

西応寺

2003年 子ども代表 平和への誓い