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白神社
  • 爆心地からの距離 490メートル
  • 中区中町7番24号(小町)


白神社跡 中央手前に常夜灯の基壇が見える 1945年11月頃


 平和大通り沿いの超近代的なホテルの隣りに、ひっそりと静まる社。それが白神社である。神社の確かな歴史はよくわからないが、一五八九年以前の創建であるとされている。

 被爆当時、白神社のあった小町では建物疎開がすすんでおり、町内の人々のはとんどは縁故疎開や学童疎開に出ていた。しかし、「広島には爆弾が落ちない」と信じて、一家全員が残った家もあったという。

白神社 2000/8/31

 白神社は国泰寺に連なり、当時は今よりもずっと広い境内だった。爆心地からの距離は約六〇〇メートル。

 八月六日の朝は、いつものように戦勝祈願の参拝者がひっきりなしに続き、午前七時過ぎの警報発令時には、社前の二つの防空壕に入りきれないほどの人だったという。社司の野上勝彦氏は、午前六時半の朝参りをすませた後、台所で食事中に被爆し、亡くなられた。野上家は長男を除く家族全員が社務所で即死した。境内にいた参拝者もすべて即死したという。神社の重要書類は御神殿の地下に埋めてあったので無事だった。

復元された常夜灯 2000/8/31

 被爆後、最初に参拝した人の話によると、社前に軍人らしい人の焼死体、石畳中央にも焼死体があったという。参拝に訪れた人々は、露出した白神巨厳を拝し、悲嘆にくれた。その後の白神社を引き継いだのは宗像久男氏だった。一九四五年一〇月二九日、仮殿を組んで祭事を執行すると、ポロ着姿の参拝者たちが祭事やみこ舞などを見ながら感きわまって泣いたという。

白神社正面 2000/8/31

 現在、社殿下の岩石群(白神巨厳)と、鼻の欠けた駒犬、熱線の影を残す灯ろうや手水鉢が当時の面影を残している。岩石群は、旧国泰寺跡の愛宕池の岩塊につながる大岩盤の一部である。そのひび割れたさまが、巷間「大きな岩石は強烈な爆風圧のためパックリ割れ云々」といわれているのは誤りで、一九五五年の神殿改築の際、移動中に割ったものである。しかし、岩石の表面が赤く変色しているのは被爆の証である。焼けた岩に触れながら、白神社禰宜の宗像紀道さんが語る言葉に力がこもる。

白神社前の被爆樹木 2000/8/31

 「白神社は爆心の社です。この岩も被爆しています。原爆に反対するのは白神社の神官としての義務だと考えます。私も原爆で親戚を一五人も失いました。戦争や原爆は、もういりません」 (平和文化「ドキュメンタリー原爆遺跡」より)

被爆した白神社の巨石 2000/8/31