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移動演劇さくら隊殉難碑 2000年6月3日
 
碑の説明板が2000年8月広島市民劇場によって設置された
右下 2000/11/8


 平和大通りの緑地帯に、「移動演劇さくら隊原爆殉難の碑」があります。碑の北側を少し入ったビルの谷間の車庫のあたり、当時の堀川町九九番地で被爆し、全滅した劇団員をしのび一九五九年に建てられたものです。

 建設にあたっては、徳川夢声、八田元夫、山本安英の各氏が奔走し、六つの新劇団(新制作座・文学座・俳優座・ぶどうの会・劇団民芸・中央芸術劇場)と、「演劇人戦争犠牲者記念会」が協力してつくられました。
 「さくら隊」(本名桜隊)は、戦争末期に軍隊や工場、病院などの慰問公演のため編成された移動演劇隊の一つ。名優と呼ばれた丸山定夫を中心とする劇団「苦楽座」を引き継いで結成されました。

 「苦楽座」が、一九四五年二月から三月にかけて広島公演した縁もあり、すべての劇団が地方疎開することになったとき広島にやって来ました。そして、防空壕掘りや建物疎開作業に従事しながら、広島放送局のラジオ・ドラマ出演、島根・鳥取方面への巡演などしているうちにあの日を迎えたわけです。

 八月六日朝、堀川町の宿舎にいたのは九人。うちその場で即死した五人は、被爆後の火災によって白骨となって発見されました。

 生き残った四人のうち、丸山定夫は比治山付近に避難し、やがて坂町の鯛尾臨時収容所に収容されます。そして、他の演劇関係者が疎開していた宮島の存光寺に移り敗戦を迎えました。敗戦を知り、原爆症の苦しい息の下から「これで日本はよくなります。いい芝居をやりましょう」と言いながら、翌十六日に亡くなったといいます。

 戦時中の映画「無法松の一生」で名演技を見せた宝塚出身の園井恵子は、海田市駅から兵庫に避難し、六甲山麓の知人宅で二十一日、同行していた高山象三もその前日の二十日に息を引き取っています。やっとのことで東京に帰ることのできた女優仲みどりも東大病院で二十四日には死亡、こうして「さくら隊」は全滅したのでした。
 宿舎で即死したのは島木つや子、笠けい子、森下彰子、羽原京子、小室喜代の五人でした。
 戦時中は弾圧で芝居をできなくされ、敗戦直前に原爆で殺された仲間をしのんでつくられたこれと同名の碑が、東京目黒の天恩山五百羅漢寺にもあり、演劇関係者の反核・平和のシンボルとなっていることをつけ加えておきます。(「原爆碑・遺跡案内」刊行委員会『ヒロシマの声を聞こう』から)


殉難碑の側面 2000/11/8

 

広島市民劇場によって設置された説明板 2000/11/8