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広島赤十字病院
  • 爆心地からの距離 1500メートル
  • 中区千田町1丁目9番6号(千田町一丁目)
  • 1939年2月竣工
  • 鉄筋コンクリート造/3階建・地下一階
  • 佐藤功一設計/藤田組施工


1939年

 広島赤十字病院の前身である日本赤十字社広島支部ができたのは一九〇三年(明36) で、現在の場所に木造二階建ての社屋で発足した。日中全面戦争が始まった一九三七年 (昭12) から傷病兵士の増加を予期して全面建てかえ工事がおこなわれ、本館および中央病棟・北病棟は鉄筋コンクリート三階建ての新しい病院が、一九三九年(昭14)に完成した。

1945年10月

 五月の開院とほぼ同時に陸軍の指定病院となり、市民などは外来の診察と治療のみで、入院は軍隊の関係者にかぎられた。
 もともと博愛の精神で創立された赤十字社と病院も、天皇制軍隊によって戦争へと加担させられたのである。
 爆心から南へ約一五〇〇bの赤十字病院は、強烈な爆風圧で隔離病棟や看護学校寄宿舎などの木造の施設は全壊または半壊し、もうれつな火事嵐によって十一時すぎには火を吹き全焼した。

広島赤十字病院 2000/6/28

 鉄筋コンクリートの本館・中央病棟・北病棟は爆風圧には耐えたが、内部は窓ガラスや器具などの破片が吹き荒れ、コンクリートの壁に突きささった。そして、こわれた窓から炎が吹きこんできたが、職員などの必死の消火活動で内部の火災はくいとめることができた。

 

爆風で曲がった鉄の窓枠

 当時の在籍者は、医師二七人、薬剤師六人、看護婦三四人、看護学校生徒四〇八人、職員七九人で合計五五四人だったという。そして、当日の死者五一人、重軽傷者二五〇人と記録にあるが、この数は院外にいた犠牲者をふくめてのことと思われる。
 
 被爆時の出勤者数は不明で、院内にいた医師・看護婦・職員などのうち即死者は少なかったと思われるが、85%が重軽傷を負ったとの証言もある。

 原爆投下の直後から、市中から逃れてくる被爆者やトラックで運ばれてくる負傷者で、病院内はもちろん玄関前も大混乱となった。動ける少数の医師や看叢婦はもちろん、負傷した医師や看護婦たちも副木や包帯姿で、負傷した市民などの応急処置にあたった。


ガラスの破片で傷ついたコンクリート壁

 次つぎと殺到する負傷者はあとを絶たず、やがて医薬品や包帯なども使いはたしてしまった。そこで、消毒用のリバノールを作って洗面器に入れ、ガーゼにひたして患者の傷口につけてまわったが、作っても作ってもすぐ無くなったという。

 翌七日15時30分、大本営は広島への原爆投下を「特殊爆弾」と発表したが、赤十字病院二階のレントゲン撮影室の保管庫と地下室に収められていたフィルムが感光していたことから、研究者や科学者は「原子爆弾」であることを確認し、軍部などに報告した。十日には、大本営調査団による陸海軍合同会議が倒壊をまぬがれた広島兵器補給所で開かれ、原爆だと確認されたが軍部も政府もその事実を発表せず、市民も国民も敗戦まで知ることができなかった。


モニュメントから見た病院

 敗戦後も多くの被爆者などを治療してきた被爆病棟も、老朽化のなかで一九九〇年八月に解体された。そして、一部残されていたガラスの破片で傷ついたコンクリート壁と爆風圧で曲がった鉄の窓わくが、市民運動でかろうじて一九九三年七月にモニュメントとして保存された。また、もう一面の壁は原爆資料館東館に保存・展示されている。
 生への営みの象徴であったこの病院も、今は広島赤十字・原爆病院として再出発している。(植野浩著 汐文社「ヒロシマ散歩」から)