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日本銀行広島支店
  • 爆心地からの距離 380メートル
  • 中区袋町5番21号(袋町)
  • 1936(昭和11)年8月竣工
  • 鉄筋コンクリート造/3階建・地下1階
  • 逓信省 日本銀行臨時建築部 長野宇平治設計/清水組施工


竣工時の日銀広島支店 1936年


 爆心点より半径五〇〇メートルまでの範囲は、原爆による破壊の状況がもっとも凄まじい。また、それを知る証言も資料も少ないため、被爆当時の様子は不明な点が多い。

 日本銀行広島支店は爆心点から約三 八〇メートルという近距離にありながら、いまもなお当時の姿をそのままにとどめている建物である。一 九三六年に建設された地下一階地上三階のこのビルは、鉄筋コンクリート建ての上に耐震設計を施してあ り、広島随一のが堅固さを誇っていた。

1945年11月頃

  原爆が炸裂したとき、このビルには、一平方センチ当り太陽光の三六〇〜一五〇〇倍という熱線、また、 一平方メートル当り一九トンもの衝撃波と秒速二八〇メートルもの爆風が襲った。しかも、屋外であれば 致死量をはるかに越える放射線が照射されていた。つまり、ここは常識的には生命の存在を許さない“死 の同心円”の中にあったわけである。

2000/8/31

   この日銀ビルでもっとも被害の大きかったところは三階だった。 当時、日銀の三階には広島県財務局が疎開していて、一六名の職員が勤務していた。爆発で三階の通りに面した窓枠は粉々に破壊され、室内には火災が発生した。机やイスなどすべてのものが廊下側に吹き飛ばされた。勤務していた一六名の職員の内、即死は六名、現在までの生存者は四名にすぎない。

正面入口 2000/8/31

 一、二階も三階同様に窓粋が壊されたが、ちょうど開店前の時刻で、窓のシャッターがおりていたことが幸いしたのか、火災はまぬがれている。このように、ビル内部の被害は凄惨をきわめたが、ビル自体はビクともしなかった。その理由は日銀ビルのずば抜けた堅牢さにあった。というのも、このビルの外壁は薄い部分でも四〇センチ、厚い部分では七〇センチものコンクリート壁だったからである。まさに、ビル全体が金庫の役割をしていたわけだ。

 ビル内部は相当の混乱があったが、翌七日には店内のかたづけが終わり、早くも八日には営業を再開している。しかし、他の銀行は復旧の見通しがたたず、市内の一二行は日銀ビル内に雑居して営業することになった。壊れた窓枠には板を打ちつけて、店内の労務員室、食堂は臨時病室となり、負傷者を収容していた。翌年春には店舗内外の補修を終えたが、それから現在まで大がかりな改装工事はない。

案内プレート 2000/8/31

 被爆当時、爆心地には二万一〇〇〇人もの人々がいたと推定されているが、一九四五年一一月までのこの地域の罹災者の死亡率は実に九八・四%であった。まさに全威である。一般にはあまり知られていないが、爆心地における生存者数は、一九八五年のNHKの調査によると、五七名と確認されている。爆心地で被爆するという極限の状況を体験した生存者の証言は、すべてではないが、いくつか共通した部分がある。それらを要約してみ
ると、「あの時のピカもドンも記憶にない。爆弾が至近距離で爆発したのだと思った。その瞬間、目の前が真暗闇になり、気がつくと体のあちこちから生温い血が流れ落ちていた。必死の思いで屋外へ脱出し、しばらくしてあたりが明るくなると、見えてきた情景はまさに地獄だった」。

 日銀三階の財務局直税部では、あの時、同僚が原爆の熱線と放射線を直接浴びて即死しながら、隣りに机を並べていてもほんの数センチ、厚い壁の影の部分にいたために助かった人もいた。しかし、そうして生き残っても、数日後、数週間後に同僚がつぎつぎと死んでいくと、その後もながく死の恐怖に悩みつづけねばならなかった。爆心地で被爆した人たちで、自分の体験を語る人は多くない。(平和文化「ドキュメンタリー原爆遺跡」より)