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県立第一中学校(現国泰寺高校) 2000年6月12日

 

県立広島第一中学校の焼跡 1945年11月頃

 旧制広島一中、つまり広島県立広島第一中学校は、被爆当時も現在と同じ国泰寺町に位置していた(爆心地より南東に約一〇〇〇メートル)。原爆で校舎は全壊・全焼し、学校教職員、生徒に多くの犠牲者を出した。

 戦時色がいっそう強まっていく一九四四年、全国的に中等学校生徒の勤労動員がはじまった。広島一中の生徒も上級生(五年生)から次々と学校を離れ、一年生を除くほとんどの生徒が各種工場に動員されていった(たとえば五年生は呉海軍工廠、四年生は府中町の東洋工業へ)。また同年、建物疎開が実施され、一年生もこの作業に動員されていった。

被爆した門柱 2000/9/5

 原爆投下の時、この一年生の半数が建物疎開の作業中だった。夏休み返上の作業であったため、一年生は午前七時三〇分には登校していた。この日は、厳しくなる動員作業に対応した新しい時間割の発表日でもあった(他学年は、すでに勤労動員でそれぞれの作業地や工場にいっていた)。犠牲者はこの一年生から数多く出た。運動場で点呼をうけた後、一年生六クラスのうち三クラスは、市役所裏付近へ建物疎開の後片付けのために出発した。残りの三クラスは一時間後の作業交替のために学校に残った。そして八時一五分。 
 

被爆した門柱

「いきなりピカッと光ったかと思うと、バーンという音。それと同時にガラガラと倒れる校舎。……外は月夜よりも暗かった。……首が切れて死んでいたもの、今にも死にそうになっているものなどもあって、まるでこの世の地獄であった」(原 邦彦氏)
 と、当時の生徒は語っている。学校に残った三クラスのうち、約五〇人が校舎の倒壊で即死、または焼死している。また、脱出して避難した生徒も途中で行き倒れとなったり、収容された病院でそのほとんどか死亡している。建物疎開に行っていた三クラスも、一部は即死、大部分は重傷を負い、その後避難したものの生き残った生徒はいない。在学生の三五一、教職員一五名の合計三六六名が死亡した。

追憶の碑(手前)と原爆死没者の碑

 一九四六年、それまでは近郊の国民学校で分散授業が行われていたが、この年に旧校地にバラック建ての校舎が完成し、ようやく全校生徒がそろって授業できるようになった。この時から関係者の努力で学校復興にむけての歩みかはじまった。

 一九四八年、遺族会会員と亡き友を悼む同窓生たちによって原爆死没者の慰霊の碑、「追憶の碑」が建立された。さらに一九五八年には、広島一中の死没者三六六名の名前を刻んだ「原爆死没者の碑」が建立された。

案内板

 このふたつの石碑は現在、国泰寺高校正門を入った右手にある。学校を訪れ、正門を通る時、必ずこの石碑に気づくだろう。また正門の北隣りには、「広島県立広島第一中学校」と書かれたプレートをはめこんだ門柱がある(広島一中記念館西隣り)。この門柱もあの八月六日を知っている。それは見るものにあの日の惨状を語らんとしているかのようである。(平和文化「ドキュメンタリー原爆遺跡」より)