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本川小学校  爆心地にいちばん近い小学校
  • 爆心地からの距離 410メートル
  • 中区本川町1丁目5番39号(鍛冶屋町)
  • 1928(昭和3)年7月竣工
  • 鉄筋コンクリート造/3階建・一部地下一階
  • 増田清設計/清水組施工

東側玄関 1935年頃

 爆心地から三百五十メートルはなれたところに本川小学校はあります。
 当時は、本川国民学校と呼ばれており、八月六日には約二百名の児童と数名の教職員が登校していました。その他二百人がかりが分散所で授業を受けたり、勤労動員されていました。

相生橋側から見た本川小 1946年1月

 あの瞬間、校庭にいたものは即死。校舎内にいたものも即死か大けがをし、結局は二人を残して全員亡くなりました。すぐそばの本川に飛び込むんだものもたくさんいましたが、間もなく始まった干潮の流れに巻き込まれ力つきていきました。

 校舎は、一九二八年に建てられた広島で最初の鉄筋コンクリートの三階建でした。被爆した校舎は、倒壊はまぬがれたものの、外壁は爆風で波打ち、鉄筋の窓枠は吹き飛ばされました。翌七日には臨時救護所になり、負傷者であふれかえりました。また、校庭では、死亡した人たちを焼く火が燃え続け、白骨の山が築かれました。

 一九四六年二月授業が再開されましたが、机や椅子が不足し、レンガを拾い集めて積み上げ、板切れを渡して代用していました。一九八七年六月、この校舎は取り壊されることになりました。

本川小学校平和資料館 2000/9/2

 「今年になって、この東校舎がこわされると聞いてびっくりしました。この校舎のことを忘れないために、記念になるようにクラスで絵をかいたりしました。お父さんにそのことを話すと、『お父さんが三年生のとき、東校舎の前にある校舎ができたんだ。五年生のとき、その校舎だった』と教えてくれました」 (本川小学校四年生)

 児童・教職員・地域住民・被爆者・市民などの「被爆の生き証人を残して」の願いもあって、校舎の一部と地下室は「平和資料館」として保存され、ヒロシマ継承の場として活用されています。

資料館前の碑 2000/9/2

 この保存工事の最中に、厚さ四十センチもある外壁の内側までもが赤茶色に焦げついた部分が見つかり、また、錆びてひん曲がった銃に溶けたガラスがこびりついていたりして、被爆当時の火勢のすごさをまざまざと思い起こさせました。

 これらは、卒業生や地元住民から寄せられた被爆直後の写真や被爆瓦、焼けただれた衣服などとともにこの資料館内に展示されています。
 なお、中沢啓治氏の描いた「はだしのゲン」にでてくる小学校は、この本川小学校です。(「原爆碑・遺跡案内」刊行委員会『ヒロシマの声を聞こう』から)