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広島文理科大学(中国地方総監府)
  • 爆心地からの距離 1420メートル
  • 中区東千田町1丁目1番89号(東千田町)
  • 1931(昭和6)年6月竣工
  • 鉄筋コンクリート造/3階建
  • 文部省大臣官房建築課/大倉度土木施工


広島文理科大学本館の全景 1935年頃


 元広島大学東千田町キャンパスは被爆時、広島文理科大学をはじめ広島高等師範学校・同付属中学校と国民学校があった。

 日本敗戦の年六月には、アメリカ軍の攻撃で本土が分断されたばあい、独自の判断で対応できる「中国地方総監府」が、文理科大学本館の三階の一部と二階の大部分に置かれていた。また、呉海軍研究部や特設警備工兵隊が構内の一部を接収し、兵舎などに使用していた。

 被爆当時、文理大の在籍者は教職員三三三人、学生三八〇人と記録されているが、学生数がきょくたんに少ないのは、その多くが学徒出征兵士として招集されていたからであろう。

被爆後 1948年


 また、師範学校や付属中学校の学生や生徒も、軍需工場をはじめ農耕作業などに学徒動員されていた。付属国民学校の児童たちは、縁故疎開や三年生以上は県北へ集団疎開し、わずかに残っていた低学年の児童たちは、家の近くで分散授業をうけていた。したがって当時、学内にいたのは教職員を中心に数少ない人たちであったと思われる。

理学部本館 2000年8月30日

 

 原爆の投下によって、爆心から南東へ約一五〇〇bに位置していた構内は、鉄筋コンクリートの文理大本館・図書館・付属国民学校の校舎をのぞき、爆風圧で瞬時に倒壊または大破した。

本館の壁 2000/8/30

 九時ごろ木造部分の校舎が燃えだし、一時間後には鉄筋校舎へ炎がひろがりはじめた。学内にいた者は小人数であり、しかもはとんどが重軽傷を負ったので、手のほどこしようもない状態であった。わずか数人の教職員による必死の消火活動で、文理大本館一階の三部屋は消しとめることはできたが、それ以外の本館・図書館・国民学校の鉄筋内部は焼けてしまった。もちろん、木造校舎などはあとかたもなくすべて焼失した。

 

本館正面 2000/8/30

人的被害の正確なものは不明であるが、学外者も含め十二月末までに死亡した人数は、判明しているだけで教職員六五人、学生・生徒六八人と記録されている。この中には付属国民学校児童一三人と、東南アジア留学生三人が含まれている。

 入口のふりかえりの塔の碑  2000/8/30

 文理大の再開は翌一九四六年(昭21)一月ごろから、江田島の校舎など一部を借りて少しずつ始まった。師範学校は二月ごろから各地を転々としながら、付属中学校と国民学校も二〜四月ごろから郡部で授業が再開された。同年九月には、内部は焼けたが外郭は残った鉄筋校舎の一部が仮修理され、それから本格的な復旧工事が始まった。

 東千田町キャンパス全体が復旧したのは一九六〇年 (昭35)であるが、この間、文理科大学は一九四九年 (昭24) の国立学校設置法によって 「広島大学」と改められ、師範学校は廃止になった。そして、被爆後に補修された旧文理大の本館は、広島大学理学部一号館として使用されてきた。

 しかし、広島大学各学部の統合移転が一九八二年 (昭57) から始まり、一九九五年三月には東千田町キャンパスの本部および学部がすべて東広島市へ移転し、跡地利用について論議が始まっている。

 

ふりかえりの塔 2000/8/30

原爆にも耐えてきた旧広大理学部一号館は、タイルの一部が落ちたまま無人となっている。元学長や同大学の関係者などで保存を求める会を発足させ、県と市に保存を要望しているが、旧一号館は永久に残しておかなければならない証言物である。(植野浩著 汐文社「ヒロシマ散歩」から)