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広島県商工経済会
  • 爆心地からの距離 260メートル
  • 中区基町5番44号(基町)
  • 1936年(昭和11)年4月竣工
  • 鉄筋コンクリート造/4階建・地下1階
  • 今井兼次・小田能清設計・藤田組施工

 
竣工時 1936年4月

 1880(明13)年前後から欧米に倣い全国各地で「商法会議所」が設立される。法的な裏付けを付与するため,1890年9月に商業会議所条例が公布された。農商務大臣の認可を受け,広島商業会議所が設立されたのは1891年で,全国でも東京,大阪に並ぶ早い時期の設立だった。事務所は大手町などに置かれたが,1907年に猿楽町に新築して移転。

 1925(大14)年には鉄筋の建物を北側に増築するが,1936年新所屋建設に伴い日赤広島支部に売却した。1928(昭3)年の商工会議所法の施行に伴い広島商工会議所と改称。業務拡大に伴い事務所は次第に手狭となり,33年7月に改築調査委員会を設置し,招魂社の跡地を購入した。設計は34年9月から早稲田大学の今井兼次が手がけることになった
が,資金難のため広島市役所の小田能清技師が縮小した計画案を提示し,35年4月に着工,翌年4月に竣工した。細かな装飾を排除したインターナショナル・スタイルの捷物は,高さのやや異なる2つの棟がL字形に接合する形で,これに展望楼が添えられていた。





1950年 本川小学校屋上から

 戦争が進むにつれ統制経済の推進機関として会議所は新たな役割を求められる。1943年3月に商工経済会法が公布され,商工会議所は解散し,県単位に組織された広島県商工経済会が発足した。事務局には動員部,防衛部,婦人部が新たに設置され,挺身隊の組織化や物資配給の円滑化に協力した。

 原爆によって商工経済会の職員は28人が犠牲となった。経済会前の広場には多数の被爆者が避難したが,翌日の朝にはほとんどが死亡していたという。建物は地階の一部を除き焼きつくされたが,外郭は残った。望楼は廃墟の産業奨励館のすぐ北側に位置し,焦土と化した市街地を一望のもとにおさめていた。

 商工経済会は一時焼け跡の建物を利用するが,その後中国配電本社などを仮事務所とした後,1946年1月に被災した所屋を応急修理して復帰した。同年9月に経済会は解散し,都市単位の社団法人広島商工会議所(54年に通産大臣の認可法人となる)として再発足するが,この建物は1964年1月に現在の所屋を新築するために取り壊された。(広島市『ヒロシマの被爆建造物は語る』から)

 

原爆ドームの左が現在の商工会議所 2000/10/14