広島瓦斯本社
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この建物は,1922(大11)年9月に,広島電軌と合併してガス事業と電鉄事業を兼営していた広島瓦斯電軌の本社として建設された。会社は1942(昭17)年4月に戦時経済統制のなかで,広島瓦斯と広島電鉄に分離している。 この本社は爆心地から至近の距離にあり,南西の角を残して崩壊し,全焼した。火災は2日間も続いたという。建物は3階から地下室の天井まで,床と天井がそれぞれ重なって1枚となり,地上まで落下,圧砕していた。その間から花模様のワンピースの焼け残りが見え,白骨と化した遺体や蛆虫の発生した半焼死体も残されていた。出社直後にここで被爆した山口社長の遺体はなく,黒こげになった歯によって本人と確認された。出社していた約30人の職員が建物と運命をともにし,奇跡的に脱出した男子職員3人と女子職員2人もまもなく死亡した。 原爆は中国5県下のガス事業の首脳陣をもこの惨禍に巻き込んだ。8月5日,軍の要請により広島市に参集し,ガス事業を統合するための最後の協議決定を終えた各社の一行は,大手町の虎屋旅館に宿泊していたが,全員が犠牲となった。 1945(昭20年9月,焼け残った藤野新社長宅を本社に復旧に努め,翌46年4月に市内の残存需要家235戸にガス供給を再開した。広烏瓦斯が48年に紙屋町にいち早く建設した本社屋は,被爆後初の本格的建築で,「ガスビル」と呼ばれて市民に親しまれた。
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