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櫓下変電所が竣工したのは,市内電車が開通した1912(大元)年11月である。レンガ造平屋建て,電車通り側のアーチ状の開口部がハイカラな建物だった。一部に半地下室があり,変電のための設備が納められていた。 原爆によって建物は完全に破壊された。屋根の鉄骨トラスもアメのように曲がって落ちた。変電所にいた2人の電気課員と5人の男子動員学徒は全員圧死した。しかし,この本屋に接した木造2階建ての電話交換室にいた5人は,一瞬空に高く吹き上げられ,裏手の本川に叩きつけられた。不思議に外傷1つなく,若いカを振りしぼって千田町の本社に帰ってきたが,まもなく,赤い斑点が出て次々に死んでいった。
破壊された櫓下変電所の機能を回復させるため,高田郡吉田町に疎開させていた整流器1台と櫓下変電所の資材の一部を利用して,1947(昭22)年に本川対岸の鷹匠町に現在の中央変電所が建てられた。(広島市『ヒロシマの被爆建造物は語る』から)