広島逓信局
|
|||||||
通信・郵便など国の重要な機関であった逓信局は、現在の電信・電話事業と郵便局など郵政事業を統括していた。広島逓信局関係機関としては四つの郵便局と一つの貯金局、二つの電話局と三つの工事局や逓信病院、逓信講習所や電気試験所などの他に、町まちには三七の特定郵便局があった。 特定郵便局を除いた被爆時の在籍者数は、記録によると五千人あまりであるが、多数の男性職員が各地の職場へ派遣されたり、招集されたりしたので、外勤の仕事にいたるまで女性職員があたっていた。また、多くの動員学徒や、女子挺身隊員も派遣されていた。 爆心から北東へ約一三五〇bで、逓信病院に隣接していた逓信局は九五一人が在籍していた。前夜からの警報で防空の任務にあたっていた職員は、六日の早朝に開放されて帰宅していたこともあって、原爆投下時刻に出勤していた職員などは四三二人と記録に残されている。 八時に出勤していた人たちは、それぞれの持ち場で仕事を始めていた。八時十五分! 突然、異様なシユーツという音が聞こえたかと思うと、同時に猛烈な爆風圧が局内にいた人びとをたたきつけ、強い熱線が顔・手・足・からだに照射したと、生き残った人は証言している。 鉄筋コンクリート四階建てのすべての窓は吹き飛び、室内は目茶めちゃに壊され、ガラスや器具の破片がものすごい勢いで局内を荒れくるった。九時過ぎには、南側にあった幼年学校の倉庫が焼けはじめ、周囲からの強烈な熱風も重なって庁舎にも引火した。軽傷だった約二十人ほどの職員が必死で消火にあたり、何とか北側への延焼を一部くい止めたが、四階建ての内部の多くは焼け落ちた。 出勤していた職員などの人的被害も大きく、記録によれば死者七九人、あとの三百数十人も全員が重軽傷を負った。ちなみに、特定郵便局を除く逓信局関係機関全体では、死者一〇二二人、負傷者一八六三人と記録にあるが、動員されていた女子挺身隊員の消息は不明である。 爆心から南へ約一八〇〇bにあった逓信局関係の広島貯金局は、一部の室内は焼けたが職員たちの活動で大部分は消し止め、多くの被爆者が避難してきた。被爆二日後の八日夜、この地下室で一つの命が誕生した。その話を伝え聞いて取材した広島の被爆詩人・栗原貞子さんが、翌年三月に 『生ましめんかな』という詩を発表して原爆の告発と命の尊厳を訴えた。
|
|||||||