広島逓信病院
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旧広島逓信局関係の付属病院として、一九三五年 (昭10) に地下一階・地上二階の鉄筋コンクリートで建坪一六〇〇u余りの病院として開院し、戦後は、新築されて現在にいたっている。 その後、周囲の猛火が病院の二階におそいかかり、あわや全焼かと思われたが二階の大部分を焼いたのみで、一階への延焼はくい止めることができた。 何とか焼け残った逓信病院には、負傷した被爆者が応急処置を求めて次つぎと押し寄せた。周囲の火勢も弱まり、一応おちついた午後四時ごろには、二百人をこえる重症者で足のふみばもないほどであった。その後も負傷者の数は増える一方で、病院内には収容しきれず庭や玄関口に横たわり、軽傷者は玄関から道路にかけて長蛇の列をつくった。 ここでも負傷した医師や看護婦などが、負傷した被爆者の応急処置に精根こめてあたった。二階に保管してあった医薬品は全部焼けてしまったが、火災をまぬがれた一階などの薬剤や衛生資材を集めて、応急手当てをおこなった。 日が落ちて暗くなると、かき集めたローソクや焼け残った自動車のバッテリーを利用して照明にして、夜を徹して治療にあたった。こうして翌七日の明け方までに、七百人余りの負傷者の応急治療をおこなった。 八日になると、逓信局が疎開していた畳百枚ほどを収容患者のベッド代わりにし、内部が焼けた二階と逓信局の一階へ敷きつめて病室にあてた。しかし、毎日押し寄せる負傷者が増加するなかで、医薬品も底をつきはじめた。そうしたとき、十日に大阪逓信局から衛生材料を持った救援班がかけつけてくれたので、どうにか治療活動を続けることができた。 一方、壊れたり焼失したりして一台もなかった顕微鏡を苦心のすえ入手し、患者の血球検査をはじめた結果、白血球の異常な激減が認められた。その正体をつかむため二十六日に解剖のメスを入れたところ、医師たちの予想どおり原爆放射能による独特な症状であることがわかり、急性放射能症状の正体が見いだされたのである。
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