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師団司令部地下壕
  • 爆心地からの距離 700メートル
  • 中区基町

説明プレート 2000/9/5


 明治維新後の一八七一年 (明4) に薩摩・長州・土佐藩の献兵で天皇直属の軍隊・御親兵が組織され、その年は広島にも軍隊の分営が置かれた。翌七二年には徴兵令が公布され、七三年(明6)には第五軍管区広島鎮台(ちんだい)が、広島城域内を中心に設置された。

半地下式の通信室跡 2000/9/5

 鎮台とは、その地方の守備にあたる天皇の軍隊で、そのときは仙台・東京・大阪・名古屋・広島・熊本に置かれた。その後も 「富国強兵」政策で軍隊は増強され、広島鎮台は第五師団と改称・強化された。師団は独立して作戦行動にあたる権能をもっており、外国との戦争を想定した再編強化といえる。

 通常、1個師団は一万二千〜二万人の兵力編成で、一八九四年 (明27) の日清戦争直前には6個師団であったが、その後は戦争を経るごとに増え、日中戦争開始の一九三七年 (昭12)には24個師団になっていた。

慰霊碑 2000/9/5

 広島第五師団は日中戦争で多くの部隊が出兵したので、留守第五師団と各連隊の補充隊に編成された。太平洋戦争突入後、戦争の悪化と本土決戦を予想して、国内留守部隊の再編成がおこなわれた。

  一九四五年 (昭20)一月、広島の留守第五師団は福岡の西部軍管に組みこまれ、中国軍管区司令部となった。したがって、被爆時には第五師団の名称は無くなっていたが、広島では今でもこの名称で呼ぶ人が多い。

慰霊碑の裏面 2000/9/5

 爆心から北北東へ約七〇〇bで現在の護国神社辺りにあった旧第五師団司令部は、原爆の爆風圧と熱線であとかたもなく消滅してしまったが、その一角の半地下式壕の防衛司令室 (通信室) は焼失をまぬがれた。

 この通信壕の出入口にちかい情報室には当時、学徒動員された比治山高等女学校三年の生徒九十名が、一昼夜24時間三交代制で勤務についていた。非番の生徒は近くの兵舎で寄宿していたが、その内の半数は研修室で学習し、あとの半数は一時の外出や帰宅がゆるされた。

 彼女たちの任務は、各地の対空監視哨 (かんししょう) に直結している軍用電話の前で待機し、各監視哨からの通報をボタンで作戦室に知らせる。それを通信兵が解析し、敵機の進入経路などを暗号にして通信室へ送る。暗号命令が伝達されると、待機していた彼女たちが各部隊へ電話連絡するというものである。

碑の説明板 2000/9/5

 八月六日の朝、三十名は任務についていたが非番の六十名は、元大本営前の広場で八時の朝礼をすませたのち、竹槍訓練をしていた。その時! 強烈な爆風圧で建物も人間も吹き飛び、熱線で衣服もからだも焼かれて次つぎと息絶えていった。

 通信壕で任務についていた生徒も、一瞬電気が消えて真っ暗な中を手さぐりで友を呼び、室外へ出て見て目をおおう惨状にことばもなかった。しかし、平素からの命令を思いだして通信壕へ引き返し、まだ通話のとれる部隊へ連絡しはじめた。

財布、回数券、社章、校章
比治山高女3年西丸公子(15歳)さんは、動員学徒として通信業務をしていたときに被爆しました。全身大火傷を負いながらも牛田町の自宅にたどり着き、両親の看護を受けましたが、8月10日に亡くなりました。(原爆資料館で撮影)2000/9/14

 何、が何だかわからなかったが、「広島全滅」の第一報を九州と福山の部隊に送ったのは、十五歳の少女たちだったのである。今も一部残されている半地下式通信壕の前には、被爆時の写真と説明板が設置されており、少女たちの思いがしのばれる。また、壕のそばに慰霊碑も建立されているが、この地で二名の教職員と六十四名の生徒が死亡したと、記録に残されている。(植野浩著 汐文社「ヒロシマ散歩」から)