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ジュノー博士記念碑 医薬品十五トンで救援
  • 平和公園

ジュノー博士記念碑 2000/9/7


 敗戦直前の八月九日、マルセル・ジュノー博士は日本にやって来ました。それは、国際赤十字委員会の代表としてでしたが、彼が来日したのは、あたかも二発めの原子爆弾が長崎に投下された当日でした。

 博士の当初の来日目的は連合軍捕虜などの動静を調査することでしたが、人々の風評や、広島から東京に逃げた人の様子などで原爆被害の惨状を知りました。早速連合軍司令部へ救援を要請、戦争が終わるや調達した十五トンの医薬品を持って九月八日に広島入りし、被害調査に当たるとともに自分も治療に携わりました。

ジュノー博士記念碑 2000/9/7

 中国新聞の九月十日号は、その様子をこう報じています。「来広したジュノー博士はセネバの万国赤十字から派遣された首席代表で (略) 世界空前の惨禍のさなかにある広島市民へ、世界の同情を集めた救護の手をのべるため、飛行機で十五トンの救急医薬品を岩国飛行場に持参 (略)」と。

 持ってきた救急医薬品は、乾燥血しょう、ペニシリン、サルファ剤、DDTなどで、「薬が底をついたとき、干天の慈雨であった」と当時の薬事行政担当者は語っています。

 しかし、米占領軍は、機密保持の名目で広島や長崎に近づくことを禁止したため、ジュノー博士の広島救援計画は中断せざるをえませんでした。もし被の計画が実行されていたら、九月以降多くの人命が助かったのではないかといわれています。

 博士のそうした行為の前提となったのが、「核時代は現実のものとなった。人口四十万のひとつの都市が数分間のうちに灰燼と化して、恐るべき歴史の幕は開かれた」という核兵器出現の時代に関する認識でした。(ジュノー「広島の残虐」)

ジュノー博士記念碑裏面 2000/9/7

 こうしたジュノー博士の信念や行動は、その後GHQの意を体した政府の手でもみ消された疑いがあります。にもかかわらず広島県医師会が中心となって彼の業績をたたえるこの碑は建設されました。完成は一九七九年。碑面には「ジュノー博士記念碑建立会」の名で次の献辞が書き込まれています。

 「(略)博士の尽力でもたらされた医薬品は市内各救護所へ配布 数知れぬ被爆者を救う 博士の人道的行為に感謝し 国際赤十字のヒューマニズムを讃え永く記念してこれを建てる」(「原爆碑・遺跡案内」刊行委員会『ヒロシマの声を聞こう』から)