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陸軍病院跡の被爆榎 子どもたちに守られてきた
  • 基町
  • 爆心地からの距離 1110m

陸軍病院裏門の門柱 2000/9/5

 原爆ドームのところから、太田川を左に見ながら川岸をのぼると空鞘(そらざや)橋、その東詰め北側の土手下に「屍の街」などで知られる作家大田洋子の記念碑があります。被爆後、郡部に逃れようとしながら川にさえぎられここで息絶えた人々、戦後多くの被爆者がバラックを建てて住んでいたこのあたり、今は、すっかりおだやかな風景ですが彼女の作品の舞台となったところです。

広島陸軍病院原爆慰霊碑 2000/9/5

 さらに岸をのぼると高層アパートに囲まれた遺跡があります。広島第二陸軍病院跡。かつての門柱を使った慰霊碑、病院の庭石を組んだ台座、そばの銅板には死没者の氏名が刻まれています。患者、医師・職員約三百人がこの地で亡くなったといわれています。

 治療や薬を求めて押し寄せる被爆者を手当てしたテントづくりの仮治療所の銅板写真があり、当時をしのぶことができます。この病院内に、相当の面積を占める「戦争神経症病棟」があったこともぜひ知っておいてほしいと思います。戦地の残虐な体験で神経を侵され、それをいやすため入院していた人々が被爆したのです。

手前枯れた榎と榎二世 2000/9/6

 慰霊碑のすぐ土手下に被爆榎があります。樹齢約百年、幹の周囲が二・五メートルのこの木は、今は高さ四メートルのところから折れているうえ枯れて黒くなっています。爆心地の方に向いた幹をざつくりえぐり取られたこの木は、もとは高さが十五メートルもある立派な榎でした。

 近所の基町(もとまち)小学校の児童たちが、一九七九年ごろから榎当番を作って守ってさましたが、一九八四年八月二十二日の台風で折れてしまいました。それを枯らさないため、高校生平和ゼミナールのお兄さんやお姉さんたちにも手伝ってもらい、まわりに柵を作ったり、専門家の協力で肥料や薬も与えて大切に保護してきました。また、台風で折れた部分は十体に分け、平和教材として全国に送られました。

榎二世の後ろは慰霊碑 2000/9/6

 こうした努力の結果、新しい芽が出てみんなを喜ばせましたが、最近は遂に力尽さたようです。しかし、幹の近くに榎二世が小さな芽を出しています。そばには、この木を守ってきた子供たちのこんな立て札があります。

 「原爆は罪のないエノキまで見苦しい姿にした。今日まで本当によく生きてきた。生命の力強さと尊さを知った。かわいそうなエノキ。基町に住む私たちは、この木を守っていく義務がある。基町小学校児童会」(「原爆碑・遺跡案内」刊行委員会『ヒロシマの声を聞こう』から)