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広島女子高等師範学校
同附属山中高等女学校

追 悼 記  増 補

ヒロシマの願い

広島女高師附属山中高等女学校    
原爆死没者追悼文集編集委員会 から

 

 

四、金輪島に八月六日を尋ねて

               山 内 幹 子

 

当時働いていた人から
被爆状況を聞く

 おおぜいの被爆者が運ばれ、山中高女の生徒も十四名がここで死亡された金輪島に、いつかは訪れたいと思っていたが、ようやくその機会に恵まれた。

 案内して下さった方は、元将校秘書として金輪島に勤務されていた田中つゆ子様と、女子挺身隊員として働いておられた若槻信子様のお二人で、私たち広島女高師附属山中高女関係の者は八名、総勢十名が金輪島を訪れた。

 なかでも当時四年生の竹田さんは千田町の学校内で被爆され、校舎の下敷となり、重傷を負い、星野先生に救出されて、全輪島に運ばれ治療を受けた体験のある方である。

 宇品の市営桟橋十時発の小さな二十屯くらいのボンボン船「第二天竜」で出発。宇品と目と鼻ほどの距離を牡蠣いかだを避けて遠まわりしながら十五分くらいで金輪島に着く。

 当時は暁部隊六一四○部隊が駐屯しており、軍関係者が千二〜三百人位とエ員が五〜六百人位いたようだ。桟橋のすぐ前が修理本部で、東に炊事場、食堂兼講堂と並んでいたというその建物の前で、田中さんたちの説明か始まった。




金輪島全体図



横穴式防空壕

 広島に新型爆弾が落ち、全滅したという噂が流れたのは十時頃だった。昼頃から被爆者が上陸用舟艇でどんどん運ばれてきた。桟橋から担架で講堂や兵舎に運び、莚や毛布の上にねかせられた。

 殆んどが全身火傷で、すすだらけで黒ずんだ顔。髪の毛や衣服はぼろぼろに焼けちぎれ、肌は焼けただれたり火ぶくれになっていた。皮膚はたれ下がり、又、皮膚や肉片が衣服にくっついていた。担架に乗せようとすると皮膚がずるりと剥けて、手のほどこしようがなかった。何度も何度も桟橋と収容所を往復したが、あまりのむごたらしさに言葉もでず、涙をためて運んだ。この世の地獄だった。

 その夜から、事務のかたわら、日夜寝食を忘れ看護にあたった。三日位いは食事も、のどを通らなかった。

鋳物工場・木工所
(昭和20年当時の建物を使用している)

 男女の区別もつかない焼けただれた被爆者が満員電車のようにすし詰めに並べられて、広い講堂やあちこちの兵舎もいっぱいで、外にも寝かされていた。身体も自由にできず、うつろな目で 「水、水」 と訴えるひと、泣さ叫ぶ人、発狂したように喚き歩く人たち、呻き声の狂乱の中で、次々と息を引きとっていった。「水を与えると死を早めるので与えないように」 との命で、水は許されず、薬も大変不足しており、少ないチンク油、赤チンをうすくのばしながら塗ったり、小麦粉を練ったもの、人参、じゃがいもの卸したものも使った。傷口から這い出るうじ虫をピンセットや箸で取って歩いた。おも湯や粥を冷やしてロに入れると、おいしいおいしいと喜ばれた。又、市内から運ばれたと思われる焼けたみかんの缶詰なども与えた。包帯をしたり、排泄
の世話などもした。火傷には柔らかく炊いた御飯を練って貼るとよいときき、早速試してみたが、熱のためにすぐ乾燥するので、はいでみると肌はきれいに治ったようにみえたが、すぐに又奨液がでてきてしまう。

木工所

 大変困難な看護が不眠不休で数日続けられた。男子工員も、実に献身的な看護活動をしたのには頭が下がった。

 看護のかたわら、おむすびを作るのも大事な仕事だった。御飯が炊き上がる片端から、氷水に手をつけながら握る。手が火傷したように真っ赤になり、休まないと続けられない程熱かった。毎日、何万人分かのおにぎりを作り、沢庵を切り、各収容所へ送りこんだ。

 超満員の収容所も朝になると亡くなった方々が運びだされるのですきまができたが又、次々と新しい負傷者が収容されてくる。講堂だけでも一晩に四十人近い方が亡くなられた。まだ大丈夫と思い、重傷者に手をとられて、名前もきいていないうちに亡くなられることが多く、後悔したことが何度もあり、今でも心の中にやり切れない気特が残っている。

水だめのある横穴式壕

 火傷臭と死臭の漂う収容所内で何度も遺体の搬出を頼まれた。船で似島や小屋浦へ移動されたようだ。

 平地の少ない小さな金輪島は、海岸に沿ってすぐ山がせまり、その山すその岩肌には無数の横穴式防空壕が掘られていた。今は入口に土を盛って入れないようになっているが、中はとても広いとのこと。ここで一般事務をしたり、司令部の仕事がなされたようだ。ここの壕は高い位置にあり、建物の二階から出入りしていたそうである。

 もう今は、あの修羅場のおもかげを残すものは少ない。全輪ドックに四、五隻の汽船が入り、乗務員たちのための鉄筋コンクリートの宿舎が山あいに見える。かつては軍の将校の宿舎だったという木造の建物は、乗務員たちの食堂休憩室となって、十数名のフィリピンからの乗務員を交えた人々が昼食をとったり、テラスでのんびりしたりしている。

酒保跡

 島を南東に歩くと、海側に、木造の元兵舎だった長い建物があり、現在はドッグの事務所として使われている。反対の山側は壕が三つばかりある。この中の一つは、かつて山の冷たい湧水が流れ、コンクリートで大きな水だめが作ってあり、他所へ配水したと思われるさびた鉄管が伸びていた。更に進むと、右手に、昔、酒保だったという荒れたコンクリートの土台が見える。更に奥へコンクリートの水槽らしいものがあり、そして木造の南北に伸びる建物で道は終わる。ここはかつて木工所として使われていたそうで、今も老朽はしているが、もとのまま使われている。

 酒保の跡地のそばから南に山あいを入る通があり、その西側の少し高い所に金輪神社を見つけた。海の神 「金比羅さん」 をお祭りしてある。さして高い場所でもないので石段の数は少ないが、そのニケ所に大理石が使ってあった。

無名戦士の墓

 山あいを入る道を登ると、かつて兵舎であった所に民家が数軒あり、皆、戦後の入植者であるという。段々畠で仕事中の高年の婦人に、お墓はないかと尋ねてみると、お宮の上の方に、道がないからわかりにくいが、兵隊さんと看護婦さんの墓があるとのこと。早速探しに山を登る。目標は高い松の木だ。急傾科の坂を、潅木や草をつかみながら登る。松の木のあたりは、潅木がおいしげって、とてもみつからない。又登る。ふと目の前にぽっかりと、明らかにそれらしいものが現れた。小さな墓標が二本ころがり、少しこんもりと土石が高く、花立てらしいものもある。長らく手入れをされたあとのない、山と一つになったおもむきの墓だ。二本の墓標には 「無名戦士の墓」 と読みとれる字がある。ああ、あった!草を抜き、穴を掘って墓標を立て、秋草を手折って捧げた。小野文子さんが線香とろうそくを上げられみんなで手を合わせた。

 



金輪島から黄金山をみる

 

本の表紙

平成5年10月20日発行

 

広島女高師附属山中高等女学校原爆死没者追悼文集 編集委員

 


15分後の「きのこ雲」 原爆資料館に提供 中国新聞2002/9/12

爆心地の南東約六キロの金輪島(南区)で撮影

 広島への原爆投下の約十五分後とみられる「きのこ雲」の写真五枚が、撮影者の小平信彦さん(83)=東京都目黒区=から広島市中区の原爆資料館に提供された。爆心地の南東約六キロの金輪島(南区)で撮影し、地面から雲の頂点までを上下二分割でとらえた連続写真がある。資料館は「原爆投下直後の全体状況を知る貴重な資料」とし、十九日から一般公開する。

 小平さんは当時、陸軍技術大尉として金輪島の野戦船舶本廠(しょう)修理部にいた。事務作業中に青白い光と爆風を受け、近くの宿舎に置いていたカメラを持ち出して十五分後に撮影したという。

 上下二分割の写真は、軍需工場の煙突が並ぶ宇品(南区)の光景も写っている。他の三枚は宿舎の屋根越しなど。資料館が所蔵するきのこ雲の写真はほかに、個人六人と米軍撮影分の計十一枚あるが、比較的近距離から地面も含めて雲の全体像を撮影したのは初めて。

 小平さんは終戦後、ネガを自宅に保管していた。今年夏にテレビで原爆資料館を紹介する番組を見て、「自分の写真も役立ててほしい」と提供を思いたったという。「火薬工場が爆発したかと思った。最初はクラゲのようなピンク色の雲だったが、慌ててカメラを取ってきたら、既に入道雲のようになっていた」と当時を振り返っている。

 小平さんの写真は、十九日から十月十五日まで、資料館内にパネル展示される。

【写真説明】小平さんが金輪島から撮影した原爆きのこ雲(上下2分割で撮影)