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福屋百貨店
  • 爆心地からの距離 710メートル
  • 中区胡町6番26号(胡町)
  • 1938(昭和13)年3月竣工
  • 鉄骨鉄筋コンクリート造/8階建・塔屋2階・地下2階
  • 渡辺仁設計/藤田組施工

福屋百貨店 1938年

  市内の繁華街が八丁掘地域へ移りだした一九二九年 (昭4)に、新築された四階建ての福徳生命ビルを全舘借り受け、創業したのが福屋百貨店の始まりといわれている。

広島で初めての鉄骨鉄筋
コンクリート 1937年

 広島で唯一の百貨店として、昭和初期の不況ものりこえて営業は順調に推移し、日中戦争開始の翌一九三八年(昭13)には電車道をはさんだ南前に、鉄筋コンクリート地上八階・地下二階の新館をオープンさせた。それが現在の福屋百貨店であるが、戦時体制の強化によって営業の縮小を余儀なくされ、旧館は廃止された。

 当時としては珍しく全舘に冷暖房設備を設け、外装は淡黄色のテラコッタ (素焼き陶器)を貼るなど、地方都市の水準を大きくこえた建物であった。
 しかし、戦局がきびしくなり太平洋戦争が開始されてからは販売する商品はしだいに少なくなった。そしてついに、敗戦前の一九四四年 (昭19) から売り場が縮小され、建物のはとんどは軍関係などに接収された。

被爆直後の福屋百貨店

 被爆直前、福屋百貨店としては地下一階の雑炊食堂と八階の事務所だけの使用であった。地下二階は陸軍通信隊、地上一階から七階までは軍需管理局・中国海運局・広島貯金局・木材統制会社・金属回収会社などが使っていた。そしていつも、いかめしい軍服姿の人びとが出入りしていたという。

 さらに、軍部などの命令でクリーム色のテレコッタ外装全体に黒褐色の塗料がぬられ、敵機の目標にならないように迷彩がはどこされていた。
 爆心から東へ約七〇〇bの福屋周辺の木造家屋は、あっというまに押しっぶされた。鉄筋コンクリート建でも半壊などした建物もあったが、福屋は倒壊をまぬがれた。しかし、爆風と熱線で破壊された窓から猛火が吹き込み、内部は全焼した。

福屋 2000/9/2

 記録によると被爆時、店内にいた従業員は三人で、一人の死体は確認できなかったという。その時、各階で仕事についていた人びとの記録はなく、何人死傷したのかさだかではない。
 被爆後、外郭が残った福屋は臨時救護所になって多くの被爆者を収容したが、血便の出る者が増加し赤痢患者として扱われた。そこで八月十七日から、二〜三階を伝染病舎にあて、急性放射能障害による症状だということが明らかになるまで、約一カ月ほど使用された。

説明板 2000/9/2

 その後、破壊された内部の後片づけが少しずつすすみ、翌年一月には一階の一部で配給酒の立ち飲み営業を始めた。さらに区画割りして業者への賃貸しや貸し事務所などに利用した。
 本格的な第一次改修工事で、被爆前の売り場面積を回復したのは一九五一年(昭26)である。その後、ショーウインドの改修や三次にわたる増築工事などもおこなわれて現在の姿になっているが、元の被爆建物の外郭は原型のまま残している。

 最終的な増改修工事がおこなわれた一九七二年(昭47) 重圧な外装は従来どおりのテラコッタで復元され、被爆したテラコッタは取りかえられた。その一部は、電車通り向かい側の福屋別館に保存されている。

 また、斜め向側の第一勧業銀行前の歩道に、被爆当時の福屋百貨店の銅版写真と説明板が設置されている。被爆写真は同位置から写されており、現在の福屋と見比べることができる。(汐文社「ヒロシマ散歩」より)

 
 

1950年の8月6日