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島病院(爆心地)
  • 爆心地からの距離 0メートル
  • 中区大手町一丁目5番25号(細工町)
  • 1933(昭和8)年8月竣工
  • レンガ造/2階建
  • 設計・施工不詳

 

爆心地のプレートがある島外科 2000/8/3


島病院正面玄関 1943年頃


                                  

竣工時の1階内部 1933年8月

 島病院は1933(昭8)年8月31日,細工町の広島郵便局東隣に開院した。広島郵便局の元電話課跡の敷地400坪に建てられた近代的なレンガ造2階建てで,玄関の両サイドの丸柱と円形窓が印象的な建物だった。安芸区中野に代々続く医師の家庭に育ち大阪医科大学を卒業し,大阪帝国大学医学部の講師を勤めていた島薫(1897〜1977)の理想の病院でもあった。島は若い頃欧米で医学の研究を重ねた経験がある。このとき,深く感銘を受けたのが,アメリカのシカゴ近郊にあるメイヨー病院だった。この病院に通う患者のため特別列車が運行され,田舎町がにぎわったという。病院設計に当たっては,この病院を範とし,無駄を極力排して,低料金で入院できるよう心掛けた。

 

 



廃墟となった島病院 1945年11月

 島院長は開院してから毎年1〜2回,世羅郡甲山町の病院に出張手術に呼ばれていた。戦局が厳しさを増していた1945(昭20)年8月5日も懇請され,看護婦1人を伴って甲山町へむかった。翌朝手術を開始し,1人目の患者の手術を終えたところで,警察から「広島が空襲で壊滅したので救援にかけつけてもらいたい」との連絡がはいった。
                                           

消息を求める伝言板1945年10月

 原爆は,この病院の上空約580メートルで炸裂した。壁の厚さが1メートルもあるのでどんな爆撃にも耐えると信じ,回診のときも「爆弾投下に当たっては庭に落ちても心配ない,毛布をかぶって窓から離れたところにいなさい」と患者たちを安心させていた病院も,原爆の破壊力にはひとたまりもなかった。わずかに玄関回りの丸柱と円形窓がその名残をとどめていた。約75人の患者,看護婦などの病院関係者が建物とともに全滅した。

 知らせを受けた島院長は持てるだけの救急資材を手に広島へとってかえした。焼け残った横川の広島市信用組合(旧三篠信用組合)の2階に寝泊まりし,袋町国民学校で被災者の診療にあたった。
 病院の再建に着手したのは,被爆から3年後の1948年。木造モルタル2階建て,物資の乏しい中での再建だった。



 

 

 

 

 

爆心地の測定

墓石を調査する学術調査団 1945年10月

 1945(昭20)年8月6日早朝にテニアン基地を飛びたった米軍爆撃機B−29エノラ・ゲイ号は,2機の観測機とともに北東側から広島市に進入し,高度9,600メートル上空から原爆を投下した。原爆の投下目標については,丁字型の相生橋を目印にしたとされている。

 この1発で広島市内の約4キロメートル四方を焦土と化した新型爆弾について,ただちに調査が開始された。
8月6日当日,呉工廠調査隊5人が広島入りし,8日には理化学研究所の仁科芳雄博士ら大本営の広島爆撃調査団や陸軍省広島災害調査班も,軍医らを伴って広島に入った。9日には九州大学,10日には京都,大阪大学の調査団も広島に入っている。

 空中の爆発点の位置は「爆源」,「爆心」(Epicenter)などと表現され,その直下の地点は「爆央」,「爆心地」(Hypocenter)などと表現されている。この爆心については,軍や大学調査団により早い時期に概ねの位置が特定された。

 8月8日付の呉鎮守府の「八月六日広島空襲被害状況調査報告概要」では,「爆心 護国神社南部 敵弾発火ハ高度約八五○米」と報告されているが,おそらく目視による判断だろう。陸軍船舶練習部でも同日付で,紙屋町交差点の西300ートルとの推定を行っている。また,爆発地点の高度については,元宇品の高射砲大隊の調査判定により約550メートル上空で炸裂したという報告があった。

木村・田島が描いた爆心地測定図面

アメリカでは8月7日(日本時間)のトルーマン大統領の声明により原爆であることが明らかとなっていたが,わが国でこの新型爆弾が原爆と断定されたのは,10日に陸
軍兵器補給廠で行われた,仁科博士らが出席した陸海軍の合同会議が最初の記録となっている。「結論 @本弾ハ爆弾デモナク,焼夷弾デモナイ 仁科 ウランノ原子全部ガ……」その会議で爆心は,護国神社南部300メートル,高度550メートルと報告されている。

 爆心地点の推定を科学的に行ったのは,1945年の理化学研究所の木村一治と田島英三の「原子爆弾の爆発地点および火球の大きさ」と東京大学地震研究所の金井清の「広島における原子爆弾の爆心地」の2つの研究報告がある。
2つの研究のいずれも,熱線による影の方向を基礎データとして,その方向を地図上に落とし,交差する地点を爆心地としたもので,護国神社の灯ろうや中国配電,広島貯金支局などの建物に焼きつけられた熱線の影を測定している。その結果,木付・田島では,島病院の訂577メートル(±20メートル)上空,金井では,570メートル(±20メートル)上空の地点で炸裂したことが明らかとなった。

 なお各調査団は,爆心地の推定だけでなく,原子爆弾による放射線の判定や,物理学的影響,医学的影響などもあわせて調査を行った。京都大学の調査班は,9月17日に広島地方を襲った枕崎台風による山崩れで,宿泊先の大野陸軍病院が壊滅し,真下教授ら10人が即死するという惨褐にみまわれた。

広島の爆心地

 これらの調査結果は,連合国総司令部が指令したプレスコードにより研究成果の公表ができず,日本学術振興会から『原子爆弾災害調査報告書総括編』,『原子爆弾災害調査報告集』として出版されたのは,前者が1951(昭26)年,後者は53(昭28)年のことだった。

 爆心地点の推定は,その後もArakawa,E.T.・長岡省吾(1959年),Woodbury,L.A.・水木幹三(1961年)らの研究があるが,現在ではHubbel,H.H.・Jones,T.D.・Cheka,J.S.(1969年)による再評価の提案数値が最も信頼性の高いものだとされている。それは1945年の上記推定値とほば一致するもので,東経132度27分29秒,北緯34度23分29秒(誤差半径15メートル),高度580メートル(±15メートル),現在の中区大手町一丁目5−24,島外科南側大手町第3駐車場の敷地内である。本書の爆心地からの距離もこの地点からの測定とした。(広島市『ヒロシマの被爆建造物は語る』から)

 

爆心地のプレート 2000/8/3

 




広島原爆の爆心地は16m西 放影研調査 
中国新聞2002/9/10

原爆の爆発高度も、六百メートルに変更した方がより正確

 広島に投下された原爆の爆心地が現在地の西約十六メートルだったことが、放射線影響研究所(放影研、広島市南区)の調査で分かった。爆心地推定に使ってきた米陸軍作製の地図に、ずれがあり、現在の地図上に正確に転記されていなかったため。広島市中区大手町一丁目、島外科の「南東側」とされてきたのが「南西側」になる。放影研は十一日から同所で始まる日米合同線量実務研究者会議に報告する。

 調査したのは、放影研統計部のハリー・カリングス研究員(生物統計学)ら。爆心地は、米陸軍が一九四六年に作製した地図を用い、墓石や建物に焼き付けられた熱線の影の角度などから推定。一九六九年に島外科南東側が最も信頼できるという結果が出ていた。

 しかし、米陸軍地図は、その後に日本で作られた新しい地図に比べ、ゆがみやずれがあった。現在は七九年作製の広島市平面図を利用。不一致点が出ていた。

 カリングス研究員は今回、地理情報システム(GIS)を活用。旧日本銀行広島支店など爆心地から半径約一・七キロ圏内で被爆後も残る建造物二十四点を基準に、二つの地図をパソコンを利用して比較した。最も一致するように重ねた場合、新しい地図上の爆心地は西へ一六・二メートルずれた。

 新たな座標は島外科南西側となり、現在、爆心地の説明板がある西側の道路に近くなる。

 爆心地の座標は、被曝(ひばく)線量推定方式「DS86」を検証するための基準点。ただ、被爆線量は爆心地と被爆地との相対距離で推定するため、被爆者が浴びた線量には違いが生じない。線量推定には従来通り、米陸軍地図を使う。

 「DS86」の見直し作業を進めてきた広島の研究者らは、爆心地の五百八十メートル上空としていた原爆の爆発高度も、六百メートルに変更した方がより正確とみている。実務研究者会議でこれらの変更が報告、討議される。

 

 

しんぶん赤旗2002/7/29〜
社史が語る戦争・原爆  島病院