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元帝国銀行広島支店(現アンデルセン)
  • 爆心地からの距離 360メートル
  • 中区本通7番1号(革屋町)
  • 1925(大正14)年2月竣工
  • 鉄筋コンクリート造2階建
  • 長野宇平治建築事務所設計/大倉土木施工

案内プレート2000/6/3
 為替バンク三井組の出店が1874(明7)年塚本町に開店し,おもに県の公金の取り扱いに従事した。76年7月わが凶最初の私立銀行として三井銀行が発足。同時に,大手町一丁日に広島出張店を設立し三井組の業務を継承した。広島における最初の銀行だった。80年4月に大手町二丁目に移転,92年には広島支店と改称し,1925(大14)年2月に革屋町へ新築移転した。

 この建物は銀行建築を得意とする長野宇平治(1867〜1937)が設計した。本通りから4.5メートルほど控えて配置し,ルネッサンス様式を基本とする美しい建物だった。正面玄関には上下に異なる柱頭(1階部はドーリア式,2階部はコリント式)が付いた丸い石柱が置かれ,開口部はアーチ型をはさんでパラデイアンウインドーと呼ばれる3連の矩形窓を配している。外壁は岡山産万成石で囲まれ,屋上のバラペットは正方形にいくつかくり抜いたアクセントが付けられ,正面上部には
三井銀行の社章を掲げていた。内部はイタリア産大理石を使用する豪華なもので,吹き抜けの高い大井があり,3本の独立した列柱を配して,そこにカウンターが取り付けられていた。

建設当時の三井銀行広島支店 1925年

 1943(昭18)年4月第一銀行と合併して帝国銀行広島支店となった。原爆が投下されたとき,銀行内には宿直行員6人,女性行員12・3人がいたが,生存者は確認されていない。建物の被害は著しく,大井・屋根のかなりの部分が崩れ落ち,劫火に見舞われた。外壁は爆心地に近い北西部が著しく破壊され,屋根が抜け落ち,それを支えていた梁や柱が鉄筋を露出させて垂れ下がり,あるいは亀裂を生じていた。端末鉤型の異形鉄筋を使用していたが,その効果も十分ではなかった。しかし,金庫室の上部など壁の密度のある屋根スラブは崩壊を免れた。設置されていたアメリカ製の大金庫は被爆に耐え,現金や帳簿類は無事だった。この金庫を製造したモスラー社は,懸賞金付きで原爆に耐えた金庫を募集したが,米兵がこれを見つけて紹介し,アメリカ本国でも評判となった。

 他の主要銀行と同様 日銀広島支店内で仮営業を開始し,10月に大手町一丁日の三井物産,1947年2月には旧帝国銀行大手町支店にと転々と店舗を変更した。48年10月には第一銀行を分離し,帝国銀行広島支店は播磨屋町に仮営業所を設ける。50年5月に修復を終えた元の店舗に復帰した。

1945年8月下旬

 著しく破壊されていたにもかかわらず修復されことは,まさに起死回生の大手術であった。一時はヒロシマの象徴として産業奨励館を残すか,帝国銀行の廃墟を保存するか論議が交わされたという。山下寿郎設計事務所が修復計画を立て,藤田組が施工した。破損,損壊部分は除去あるいは補強し,新たに地震耐力の強度を保持する築造を進めた。残っていた独立柱は撤去し新たに8本の柱を立て,破損したギャラリーは撤去し,吹き抜けを縮小して2階の床を柱と関連させて新設した。

  1954(昭29)年1月に,行名を元の三井銀行に戻す。62年7月には紙屋町に社屋を新築移転し,この建物は広島銀行や,農林中央金庫広島支所が仮店舗として使用した。1967年4月にパンと洋菓子の製造・販売の「タカキベーカリー」の手に渡り,大成建設広島支店の設計によってレストランを兼ねた店舗「広島アンデルセン」に改築された。その際正面の柱は除去され,北東部,北西部に入口が新設された。無事だった金庫室の扉は撤去され,パン製造のための冷蔵庫となった。

  1977年には敷地南側に8階建ての新館を建て,一体化して利用するという大規模な増改築案が構想され,指名コンペにより木村素直の案が採用された。旧館は,金庫室が撤去されたほか,2階部分のレストランが小部屋に区切られた。新館部分に大規模なカフェテリア方式のレストランが新設されたためだ。アメリカのコンサルタントに内外装や厨房デザインなどの一部を依頼した。新館・旧館の階差を克服し,新たに大中ホールを内包した食文化建築に変身したのである。

 広島アンデルセンは華麗なる転身を遂げた。被爆建物を破壊の象徴として保存するのとは別に,時代が必要とする姿に再生しながら利用していくという保存の一方法を体現したのである。(広島市『ヒロシマの被爆建造物は語る』から)

2000/6/3
アンデルセン2000/6/3